もう、取り返しがつかないところまで
 戻れない場所まで来てしまった

 そう理解したのは、耳が痛くなるほどに 雨が傘を叩いた日。














                            シンドーム














 次の日は誂えたように雨だった。

『傘持って散歩行くか』

 アイズにはこの雨の音は聴こえていない。
 だからカーテンを開いて 雫を落とす灰の空を見せ、浅月がメモを見せる。

 アイズはそのメモと浅月を見比べ、小さく頷いて見せた。







 玄関のドアを開けると、雨の音が強くなる。

 浅月が百均で買った透明のブルーの傘を開き、アイズに手渡した。
 そして自分は無色透明の傘を開いて、先に外に出てアイズを促す。




 外に出ると、途端に雨が傘をぽつぽつと叩き始めた。


 雨だから、空も黒い雲で覆われていて明るいものではないけれど、
 今までずっと部屋の中だけの生活だったからか、アイズにはなんとなく眩しく感じて目を細めた。



 隣では、透明の傘を手にした浅月がぼんやりと街並を見渡している。


「……」


 どうして、こんなにも自分の世話を焼いてくるのか。
 何度も考えたが、理由は分からなかったし、訊く気にもならない。

 カノンがいなくなったことで、底の底まで沈んでいて
 世界の全てがどうでもいいとさえ思っていた。
 だから
 ここまで来て、自分が普通の生活ができるように、なんて毎日陽の光を部屋に入れにやって来る彼が不思議だった。


 もっと言うと、


 もしかすると

 少し ほんの少しだけ、
 煩わしく感じていたこともあったかもしれない。




 けれど、いつの間にか
 思えばこうした毎日が続くようになって2ヶ月が経っていて。

 以前のようにただぼんやりとベッドの上だけで過ごすのではなく、
 身の回りのことが自分でできるようにもなって、前ほど暗く鬱蒼とした気持ちではなくなった。



 傷は、隙間は
 埋まることはない、そう思っているけど。

 埋まるはずがないし、
 カノンの今までの存在が
 いなくなって、それでも埋まってしまうような
 そんなものだと思いたくないから。



 浅月には、感謝すべきものだと分かってはいるのだけど。
 心を開くことはカノンへの裏切りのような気がしていた。






 …けれど最近、心が何かを思い出すような、何かに気付くような
 そんな風に疼くことがある。





 ふと隣の浅月を見やると、ちょうど彼も今視線を前からこちらに移したようで
 見事にばち、と合った。

 浅月は少し驚いたように目を見開いて、その後すぐ気まずそうに笑った。


『……』


 そしてすぐ、何もなかったように離れた視線。







 ……そう、最近になって やっと

 気付いたことが あって。





 認めたいのか 認めたくないのか

 認めてしまうと 何かが終わってしまうような、あるいは始まってしまうような

 そんな不安が押し寄せてくるから、考えないようにしていたのに。




 どんなにきつく蓋をしても、何かが溢れてしまいそうになっている。
 自分の中で。













 歩いているうちに、雨は少しずつ強くなる。
 傘は差していても足元は濡れるのを免れない。


 靴がどんどん水を吸って重くなるころ、差し掛かったのは、
 公園の脇にある 花畑というには少し小さな花壇。


 咲いているのは、季節がいつかなどは知れないけれど あやめの花。


 希望を示しながらも
 容赦なく絶望を圧し掛からせる花。


 立ち止まり、じっと見つめているうちに、頭の中にふつふつと記憶が蘇る。



 この花を好む、神のごとき力を持った人間と
 それに翻弄される自分たち、



 何より







 少し前に 自分の隣を離れてしまった親友の存在。









 食い入るように眺めていたためか、

 横で浅月が首で傘の柄を支えながら、やりにくそうにメモにペンを走らせていたのに気付かなかった。




『ラザフォード、お前 あれから泣いたか?』






「……」



 あれから、 とは言うまでもなく、カノンが離れていってから、という意味だろう。




 なぜこんなことを訊くのだろう。


 いや、分かっている。











 本来なら 悲しいことだから。




 涙も頬を滑りそうな それくらいの悲しいことだから。






 それを仲間であっても他人である浅月にも分かって

 自分の身体が忘れてしまっている。





 …昔、同じように「悲しい」ことが起こったときのことが思い出された。






 そんな思いをよそに、無言で首を振ると、また浅月がメモに何か書き始める。

 傘を持ってやると、唇が「サンキュ」と動いた。



 自分と対話するために、言葉を交わすためにこうまでしてくれるのだ。



 感謝すべきなのは自分なのにと、

 感謝してもし足りないものなのにと、



 今になって漸く考えた。














『悲しいときは泣けよ。

 涙もなくなっちまったら、それこそ悲しいぜ』










 かろうじて読めるくらいの、少し彼の性格を表しているような字。


 その文を一度目で追って、心がギシリと音を立てたのを感じて


 もう一度読んでみた。


 そして思い出す。









 前にも。

 もう昔だけど





 前にも、確かにそう言われた。













 少し高い浅月の目を見ると、ふっと笑って傘をついと下ろした。

 途端に雨が彼の赤紫の頭から降りかかり、しとどに顔を濡らす。
 頬をしきりに水が伝う様子はまるで泣いているようで。






 ……自分の 代わりに。



 けれどその目は穏やかに笑っていた。












 そう、最近になって気付いたことがある。










 浅月の瞳は、



 『彼』と同じ







 緑色をしている。













 そう納得した瞬間、耳の奥でぱん、と何かがはじけたような音がした。


 そして一気に轟音がそこら中に響いた感覚がして、

 だだだ、と傘のビニールを雨が叩く音。






 意外と冷静に事態を受け止めることができた。


 聴覚は一瞬で馴染み、手当たり次第にそこら中の音を拾い始める。


 ゆっくりと思考を巡らせ、

 そしてゆっくりと口を開く。

 発声を忘れていることはないだろう。







「アサヅキ、
 お前は……カノンと似ているな」








 掠れた声が喉から発せられると、浅月が大きく目を見開いた。

 そしてすぐに穏やかに笑い、







「久しぶりに声聞いたな」




 そう言った。




「あぁ、俺も…お前の声を聞くのは久しぶりだ」





















 何かを 思い出していた。

 何かを 重ねていた。










 何を、かは知っている。





 けれど精一杯、知らない振りをした。














TO BE CONTINUED...



「黒」
「青く錆びた」








なんとか二回目更新成功〜!
香ラザ楽しいなぁ(*´∇`*)

いただいたお題は「シンドローム」(螺旋文)でした〜。
本当はこれが第一話になる予定だったんですが、(「青く錆びた」が2話だった)
色々考えた結果この順番になりました!
症候群。 アイズがカノン病なんです。(笑 いや笑う話じゃないんだけどね…


05/07/18


*閉じる*