本当でも 嘘でも
どちらだとしても 大丈夫








      四月の魚








 高く澄み渡った秋空が次第に冷たさを集めはじめ、次の季節の到来を告げていた。
 日差しはないのに、なぜか眩しく感じる白い空。それだけで空気に白色がついたように街の景色は急激に色を失っていく。風の吹き抜ける高い音。外を見渡し、窓を閉めながら彼女が身震いした。
「うぅ寒い! 春はまだですかね〜」
 肩を怒らせて暖を取るように肘を擦る彼女に、彼が苦笑する。
「まだ冬にもなってないのに、もう春の話か」
「春の方が良いじゃないですか。暖かいし、あちこちお花も咲いて景色が鮮やかになりますしね!」
 にこにこと言う彼女の肩越しに見える、色素の薄い空。それをぼんやりと眺め、彼は「まあ寒いのは嫌だな」そんな言葉で同意した。


 わたしの視界のまん中でいつも、彼女はくるくると踊るように歩き、話し、笑って。
 そしてわたしのあってないような瞬きの合間、彼は時々彼女を優しく見つめ、優しく笑う。




 彼女が淹れた温かい紅茶の香りが漂う部屋。
 湯気の立つカップを両手で包みながら、彼女が再び早く春が来て欲しいと零した。
「桜の下、春の陽気の中を泳ぎたいです」
 その言葉に、向かいで紅茶を啜っていた彼が目を丸くする。
「あんた魚にでも…」
 『春の陽気の中を泳ぎたい』そんな彼女の表現に呆れを示そうと、用意した彼の声音。
 それが途中で遮られたのは、彼の視界が春の陽気に染められたから。
 無機質だった白く四角い空間に、まず桜が咲いた。
 突如床や壁から伸びて来た桜の木、その根や幹や枝、所構わずピンクや白の桜が爛漫に咲き誇る。先ほどは窓からぴゅんと鋭く忍び込んできていた冷たい風も、ふわりと暖かく花びらを舞わせた。

 それはわたしの目から見ても、正に桜の雲海。所狭しと咲き、舞い続ける桜の花で床も壁も埋め尽くされ、いつの間にか天井にまで延びている。

「……」
「……」
 呆気にとられ声もなく辺りを見回していた二人が顔を見合わせ、やがて同時にくすりと笑った。

 彼の持つカップの紅茶に、何枚かの桜の花びらが浮かぶ。彼女の持つカップも同じようになっているのだろう、「風流ですねぇ」と間延びした声でのんびりと彼女が言った。
「この季節にこんな風景を見られるなんて、ラッキーですね」
「ラッキーってもんなのかこれは」
「これならついでに部室中を泳いでしまえそうですね」
 うっとりとした声音で言いながら、両手で宙をかいて泳ぐ仕草をする。
「かえる泳ぎでか」
「あは、鳴海さん平泳ぎのことかえる泳ぎなんて言うんですか?」
 彼の揚げ足取りも楽しげに受け流す彼女は、本当に嬉しそうで。
 辺りを包む桜も、彼女の笑顔も、彼女を眺める彼の眼差しも。
 すべてが暖かな、春の昼下がり。
 その矛盾に更に色を添えるように、どこからともなく魚が宙を泳ぎ出した。ついと現れた何匹かの魚に、二人がまた同時に息を飲む。
 何の矛盾もないと言わんばかりに、初冬の桜の中を、部室の中空を音も無く泳ぐ魚。
 辺りを埋め尽くしている花びらと同じ、ピンクの鱗がきらきらと閃いた。
 それさえも春めいて、絶えず宙を舞う桜のように二人の瞳に浮かぶのが、わたしの目にも見える。
「いつもお花見は行くものなのに、桜の方からいつもいる場所に来てくれるとは…」
「ラッキーだな」
「ラッキーですね」

 桜は床を埋め尽くし、今はもう既に二人も包み隠してしまいそうなほど降り積もっていた。
「本当に、変なことになってるな」
 追究するのは諦めて、居直るような口調で彼が肩を竦める。
 それには答えず、頭上を円を描くように過ぎる魚を眺めながら、彼女がやがてぼんやりと口を開いた。
「桜の海を泳ぐ、四月の魚ですね…私たちも」

 既に文字通り、海になるほど降り積もった桜の花びら。
 それに身を預けながら、彼女の声は寂しくて幸福。
 こんな寒い初冬の四月。桜の海。そんな矛盾を優しく包み込むのは勿論、誰かの夢。
 彼がゆっくり手を伸ばし、彼女の鼻の頭に載った花びらを払った。そのまま目を丸くしている彼女の頬を撫で、ためらいがちに口を開く。
「なぁ、・・・」

 その風景で最後。わたしはこの嘘の春を泳ぎ、ゆっくりと水面を目指し、遠ざかって行った。






 優しく肩を叩かれ、意識にちかりと光が差す。
「鳴海さん、こんな所で寝たら風邪引きますよ〜」
「…?」
 目を瞬き、突っ伏していた身体を起こすとそこはいつもの部室で。
「なんだかぐっすり眠ってましたね」
「…夢を見ていた」
 まだどこか呆然とした歩の声に、ひよのが面白そうに目を丸くする。
「素敵な夢でしたか?」
「それはもう」
「ずるいですね〜、一人だけ良い夢をみたんですか?」
「残念ながら…あんたもいた」
「………どこに突っ込みましょうかね」

 不意にぴゅんと冷たい風が窓の隙間から入って来た。反射的に身震いし、ひよのの背後にある窓に目をやる。冬支度で白んだ空が眩しい。
「なぁ、…」
「? なんですか?」
「………」
 夢で言おうとしていた嘘は、真実は、何だったか。
 真実のような嘘も、嘘のような真実も、言えやしないのはやはり、心からの言葉だからだ。
 言葉を選んで「…いや」歩が苦笑した。

「早く春が来て欲しいんだ」




end.


12/04/01








田中さかなさんからいただいたエイプリルフールネタ。
エイプリルフールのことをフランスでは「Poisson d'avril(四月の魚)」と言うんですって。
由来自体は綺麗な感じではないんだけど、いただいたネタとイメージイラストがあまりにも美しくてさぁ…!!!!!
あとさかなさんが魚ネタ下さったってのがなんともイカスよな(笑)

さかなさん、素敵なネタありがとうございましたー!!!
イメージ通りでもそれは大層嬉しいんですが、私が思ってたのと違うわ〜面白い!と、
良い意味で思っていただけることを祈る…おおお

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