たとえ俺がこの足を捨てて、 これから変わっていく気持ちを放棄したとしても。
「ちょ、見送りなんて良いって言ったろ」
人の少ないプラットホーム。
朝の光がやっと差し始めた時間、始発に乗り込む人は疎ら。
モノも気合も入ってないスーツケースを転がしてだらだらとベンチから腰を上げたとき。神妙な顔で亮子が近づいて来た。
ちょっとした事情で住み慣れた土地を離れることになったのがつい先日。
事情はちょっとした事情としか言いようが無い。だからあいつには出稼ぎみたいなもんだと言った。
そして離れると言っても、多分せいぜいほんの2年くらいだ。
いつもだらだらと指針の無い俺の隣というか斜め後ろを歩いて来た奴は、賛成も反対もしなかった。
まぁ、反対されよーが賛成されよーが事情がどうあろーが、この街を離れる、それが俺の選んだ道だ。
後戻りはできない。というか格好悪くてできるか。
眉を寄せて言葉を探してる俺の前で、亮子は目も合わさずに口をへの字にしている。
俺にはここを離れたとして、やりたいことなんて無いのかも知れない。というか無い。
ただ、起こらなければ良いようなことを起こさないために俺は進む。進む先がお前にとって未来とか前とか言えるような所かは分からないし、分かれなくたっていい。
やりたいことは無かったとしても、望むものなら少しはある。それは自分でも笑ってしまうくらい、お前に関することばかりなんだ。
立場上というかここ数年で一気に背負わされた宿命上、望むものをはっきりと言えばそれを摘まれてしまったり利用される可能性が増える。
でも俺は、俺がお前の傍で笑って過ごすこと、それ以外の全てなら堂々と望んでみせられると思う。
でもそんなことを言葉にしてこいつに言えるわけがない。
やれやれと首を振って、観念してスーツケースの取っ手を引き上げる。中身が碌に入ってない超軽量のそれは、飛び出した取っ手につられて浮き上がってきた。舌打ちする。こんなことすら全くもって面倒臭い。
物をあまり持たない俺にしては、割と長いこと手元に置いてあったのがこのぼろっちいスーツケースで。
今回は置いて行こうと思ったが、結局連れて来てしまった。
あいつの顔を見た瞬間に軋んだ音を立てたのは、俺の心なんかじゃなくてこいつだと信じたい。
「ちょっくら行って稼いでくるだけだってのに。なんで見送り来るんだよ。良いっつったろ」
さっきと同じことを言った。こいつは黙ったまま。
内心、嬉しくないことはなかった。でも複雑だ。こんなときにこいつに何を言えるか、上手い言葉が俺には思いつかないから。
言葉が浮かばなくて黙りこくる俺に、相手は「…なぁ、」ゆっくりと口を開いた。
いつもは必要以上に滑らかに動く口が、嘘のようにぎこちなく上下する。
「どれくらいで帰って来るんだい?」
「言ったろ、…せいぜい2年くらいかな」
「2年…か」
「なんだよ」
「今まで、そんなに長いこと…離れてたこと、あったっけな」
「知らねーよ」
たぶん無い。というか無い。
会おうと思えばすぐ、いつでも会える距離。そんな空間の中で離れているのとは、今回はちょっと違うから。
「お前は…向こうで。2年、向こうに居て」
「………」
歯切れが悪い。気まずさも重なって、ちょっとイライラした。心の中でこっそりと舌打ちする。
何が言いたいんだよ。いや、本当は分かってるよ。たぶん、俺が言って欲しい言葉だ。
どっちかと言えば、俺がお前に言いたい言葉だ。
「2年経って、帰ってきたら……そのままのお前かな?」
「……何言ってんだよ」
ホントだよ。たった2年だろ。2年会わないだけだ。今まで生きてきた分の、今まで一緒にやってきた分の何分の一だよ。
情けないったらありゃしないじゃねーか。ホント。お前も俺も。
2年間、お前の言葉が届かない。当たり前みたいに俺の踵を追うお前の目の前に俺は居ない。
普段事あるごとに偉そうに俺を小突いてくるお前の手は、俺に届かない。
そして、俺の言葉もお前に届かない。
それはつまり、俺にとって、意味を成さないってことだ。
そしてそれが、どうしようもなく
「…ちょっと、怖いなって」
全く、笑っちまうくらいのシンクロ度だ。同じことを同時に思ってる。
そんなのきっとお互いで分かってるけど。「怖い」そう言って亮子は苦笑した。
本当に、可哀想になるくらいの、にがわらい。
「俺は何も変わらねーよ」
「……あぁ」
「だけど亮子、例えばだな」
「…」
「俺達ずっと一緒にいて、ずっと一緒にやって来ただろ。お互いがお互いに、もしかしたら頼り切ってる、甘えてる、ってのもあるかもしれねー」
「………」
「それなら、この別れが何かに進むきっかけになることもありえるって、そう思わねーか?」
俺の口から飛び出た言葉に、相手は酷く複雑な顔をした。
泣きそうな顔か絶望した顔か、どっちだろう。でも恐らく、俺も同じよーな顔してんだ。
「…別れ、かよ」
「一時離れる・ってことだよ」
嘆息混じりに言う俺に、亮子は何も言わずに俯く。
一時、離れる。それも別れのひとつだろ。
次に会ったときは、お互い別人になってるかも知れない。浮世は揺れ動くものなんだから。
2年という時間の間、距離の離れた場所で過ごして。周りの人間、その感情模様、価値観、そんなのが少しずつ変わって。
少しずつ互いを許せないように、ぴったり合わさっていたリズムが噛み合わないように。
そんな風になってしまったらどうなるんだ?
お前はそう言いたいんだろ。
全部わかってるんだ。わかりすぎて痛いくらい。
でも、「怖い」って、お前の口から素直にそんな言葉が出てくるなんて、思ってなかった。正直嬉しい。心の中でこっそりと感動していると亮子は俯いたまま、またしても俺の度肝を抜いた。
「…お前と別れることが、何かに進むってことなら。あたしは進めなくたって良い」
「………」
ホント、お前の口からそんな言葉きくなんて。お前がそんなこと言うなんて。
正直嬉しくて正直ちょっとがっかりで、幸せなような気がするしそれでもやっぱ哀しいし、どう解釈しても俺と同じよーなこと考えてるお前がおかしくて、それを伝えたいとも思うけど。
もっと言うと俺は多分お前を捕まえて一生離さないで、お前の世界を閉ざして面倒臭い運命ってやつから遮断して、そうして居られたら幸せなことこの上ない・そうとまで思ってるんだろうけど。
そんな俺の心境、お前は一生知らずに居ろって思う。
「あんがとな、亮子。俺も同じよーに思ってる」
「……」
にっこり笑って言うと、亮子の顔の緊張が少し緩んだ。でも、たぶん信じることは出来ないんだろうな、弱いこいつは。
「どう考えても俺は変わんねーよ。ちょっと離れた所に行くだけだろ。この場所から、この距離から、俺はずっと変わらないって」
ずっと言ってんだろ。言いながら俺も俯き加減になる。こいつが俯いてくれるから俺は前を向ける。
誰かが言ってたな、「進化の反対は、退化でなく無変化である」とかって。何も変化しないことこそが、進化の反対。だからある意味では退廃すらも進化と言い得る。
もし俺が気持ち的にこの場所でどこにも行かなければ、俺は正しく「進化」の反対を辿るんだろう。
変わってしまえば、それは「退化」の反対を辿ることになって。
変わってしまえば、つまり進んでしまうことになってしまうんだろう。
「約束するって。俺は何も変わらねーし、お前の想像を超えるような道を辿ったりしない」
だから俺は、お前を蝕んで縛り付ける恐怖から開放するためには。この足を捨てたって良い。
「……香介」
今日初めて呼ばれた名前は、心臓を焼き切りそうなほどになんか甘い響きを持っていて、苦しくて泣きそうだった。
「じゃあ、またな。お互いこのままで」
最初から手持ち無沙汰な状態。言いたいことは多々あるんだろうが、言葉を持たない俺には言えることなんて何もない。
相手も同じような感じだろうけどどうにかこうにか言葉を捻り出して、漸く名前を呼べた頃には時間切れ。嗚呼無情。
発車のベルと同時に歩き出して、電車に乗り込んで、最後に一度だけ振り返って。
俺はあいつの後ろに広がる、朝陽の神々しいまでの光をぼんやり見ていた。
進めなくても良いと思っていた。お前とこのまま一緒に居られるなら。
でも、俺がそうして足を捨てても。俺の眼前に広がる「前」への光を全て放棄しても。
お前はだんだん変わっていく。
時間の流れは止められない。それはお前の心の変化の如く、だ。
誰も超えられないこの進化速度、せめて追いつくことができれば、この指先だけでも触れることができたなら、掛ける言葉はもう少し違っていたんだろうか。
でも、こんなどうしようも無い不毛な例え話ですら、変化に対する負け犬にこそ、降って湧いてくる哀しい振りなんだろう。
横に滑り出した景色が、生まれた街を忘れた頃。
漸く俺は泣くことができた。
end.