「傷の具合はどう?」
 尋ねると、ひよのは右腕を上げて「おかげさまでぴんぴんしてますよ」力こぶを作るような仕草をした。
「そちらはどうですか?」
 随分快適そうですねぇと、にこにこと笑いながら冗談混じりに付け加える。
「ま、それなりにね」
 カノンは澄ましたようにそう言って肩を竦めた。

 彼の背後には、ただただ白い壁。
 しばらくはずっとこうして、目に見えない格子に囲まれた場所にいることになるのだけど。
 それよりももっと前から、彼は鳥篭の中でもがいていたようなものだったと。誰かが言っていた。
 もしかすると彼本人がそう言っていたのかもしれない。
 そして今も、簡単には飛び立つことの出来ない場所にいるのだけど、彼の表情はどこか自由で、穏やかだった。

「鳴海さんが心配してましたよ、あんなことがあったのに、自殺されちゃったりしたら後味が悪いって」
 ちゃんとお利口に大人しくしてますか? ひよのがそう言ってくすくすと笑う。
「はは、歩くんらしいね」
 そう言ってカノンも笑った。少し困ったような顔で。
「でもまぁ、あなたがそんなことしないって、私はちゃんと分かってますからね」
「本当に?」
「あなたは、生きることを選んだんですから」
 笑顔で言うひよのに、「…選んだんじゃないよ」カノンが静かにゆっくりと首を振った。
「僕には、選べるような選択肢なんて無かった」
「カノンさん」
 ひよのが少し声をひそめたが、カノンは「必死で自分で選び取ったつもりだったけど、結局いつだって…」意に介さずに言葉を続ける。
「そんな僕が…結局は歩君に全てを託して、ただここで一人安全にのうのうと過ごしてるなんて…生き恥を晒すだけだって、思ったけどね」
「自分が操られていたって認めることも、誰かにその運命を託すことも…勇気が要ることですよ」
「そうだね」
 僕も少しは勇敢になったんじゃない?
 おどけたように言って片目を瞑って見せると、彼女は嬉しそうに破顔した。

「待つことにしたんですよね、蓋が開かれるのを」
「要するに、他人任せだけどね」
「それもたまにはいいと思います。 大体、誰かに任せて待つって、本当は辛いじゃないですか」
「まぁ、ね」
 ふっと寂しそうにカノンが笑う。
 ひよのも眉を寄せて、「…それに」言葉を続けた。
「それに…生きて行くことは、死ぬことよりもずっと辛くて困難なことでしょう?」
 ――それは苦しんで、苦しみぬいてそれでも生きて来たあなた達が、あなたがよく、わかっていることでしょう?
 静かな瞳で、どうか伝わって欲しいという願いを感じる真摯な言葉。カノンが目を細める。
「…」
「だからあなたが生きていくことが、恥ずかしいことであるはず無いです」
「…うん」
 ゆっくりと視線を白い壁にやりながら、「そうだといいと、思う」カノンがぽつりと言った。


「ね、握手してもらっていい?」
 時計を見ながら席を立とうとする彼女を、カノンがそう呼び止めた。
「はい? …勿論、良いですけど」
「良かった」
 格子越しに差し出された右手を、疑問符を浮かべながらもひよのがしっかりと握り返す。
「どうしたんですか?」
「ううん…ただ、キミがあのとき、この手で僕を制してくれなければ、……と思って」

 あのときも、こうして二人で向かい合っていた。
 そして彼女が身を呈して自分を止めてくれなければ、歩を動かしてくれなければ。
 今、ここで二人こうしていることもなかった。

 カノンが何を言おうとしているか察したのか、「なんてことないですよ」ひよのが片目を瞑ってみせた。
「ほら、私って勇敢でしょう?」
「誰も敵わないくらいにね」
 そう言って肩を竦めると、ひよのがコロコロと嬉しそうに笑う。
 本当に彼女は幸せそうだと、カノンが思ったとき。
 その考えを見透かしたかのように、彼女は言った。
「どんな言葉より、あなたが今ここにこうして生きててくださることが、凄く嬉しいです」



 どうして、繋がったと思った手は、すぐにさよならを示して左右に振られるのだろう。
 空を切った、自分のものより小さな手。
 それを思い出すのは、そう遠くない未来。

 哀しいことに。
 或いは、希望の礎になる覚悟の元に。





 end.



06.あの時かざした手のひら