「あの…!」
「大丈夫だ」
 大丈夫だから。来なくていい、と。
 彼がこちらには全く目を向けずに素っ気なく手を振った。
 駆けつけようと足を踏み出し掛けた僕はそのままの状態で固まり、軸足に力を入れて一歩下がる。
「……」

 戦闘中に彼が怪我をすることはほとんどない。
 どれくらいないかと言うと、「滅多に」ない。
 その滅多な状況はと言うと、大抵が僕を庇ったときだ。
 彼は一人ならばその辺の敵など容易くいなすことが出来るように思う。
 僕が今まで見てきたバロンの兵士達、その誰よりも彼は強いのだから。
 戦闘中の身のこなしや剣を振るう様は、鮮烈に僕を惹きつけたのに。
 惹きつけられるほど、遠のく。
 僕は近付くことすら許されない。物理的にも。精神的になんてとても。


「あの、ケアルを…」
 剣を腰の鞘に戻しながらふっと息を吐いた彼におどおどと歩み寄ると、探るような視線の僕に気付いて、彼は少し面倒そうに目を細めた。
「必要ない」
 そう言って鞄からポーションと包帯を取り出す。今までも何度かあったやりとり。
 そして今回もまた同じように彼は大丈夫だと付け加えてそっぽを向き、歩を進めようとマントを軽く翻した。
 僕はじりじりと胸の奥が燻るような感覚を感じながら、「…じゃあ」しばらくして口を開く。
「もう言いません」
 抑揚のない声でそう言って彼の踵を追うと、彼は少し不思議そうな顔で僕を見て、けれど何も言わずに歩き出した。

 大丈夫だと言われてしまえば何も言えないことに。
 そしてそれがなかなかの痛みをもたらすということに。
 彼は気付いていながらその言葉を言うのだろうか。
 それを考えて僕は段々腹が立ってきた。
 腹が立つ、なんて、お門違いの感情だ何て分かっている。それでも。
 彼はひどい。

 しばらく耳に入るのはさくさくと草を踏む音だけだった。
 彼が普段寡黙で余計なことを口にしないのは、もうじゅうぶん分かっているくらいには慣れていたのに。
 その沈黙を彼は何ら意に介すことがないのだという僕の自覚が、今日はなぜか神経をざらつかせる。
「僕は、あなたを心配することも出来ないくらい…」
 少し早足で彼の隣(よりは少し後ろ)に追いついて、沈黙を破った。
 彼は相変わらず何も言わずに歩き続ける。
「……」
 僕は。彼の隣を歩けないどころか。
 彼の傷を癒すどころか、気に掛けることも許されないくらい。
「…ダメですか」
 さくさく、さく。風に揺れる草を踏みしだく音が、数歩後に止まった。
「…駄目だとか、そんな問題じゃない」
 僕も同時に足を止める。彼は振り返り、それはもう予想していた通りの呆れるような視線で僕を見やって、やれやれと嘆息した。
 聞き分けのない子どもを諭すでも責めるでもなく、難儀そうな問題をどう遠ざけようか考えているのが分かる、少し大人気ない目線。
 言い聞かせるように、そしてこれ以上の追及は許さん、という空気を纏って「痛くないから、痛くないと言ってるんだ」きっぱりと言った。
「……嘘つき」
「何か言ったか?」
「いえ、何でも」
「…――」
 歩き始めると、意外なことに彼は立ち止まったままで。僕は彼を追い越してしまう。
 不思議に思って振り返ろうとするが、なぜかそう出来ずに歩き続けた。
 しばらくして彼がまた歩き出したのが分かる。
 僕はいつも彼の後ろを歩いたから、僕の見えない位置を彼が歩いているのは何か落ち着かない。
 もし彼が僕が歩いている方向とは別の方へ歩き出したらどうしよう、なんて恐れが情けないことに今でもある。
 でも僕がそのまま歩き続けられたのは、彼の視線を背中に感じたからだった。

 普段彼の背中を見つめているのは僕だ。
 こうして彼の視線を背中に感じるのは、いつもと違って照れるようなくすぐったいような、不思議な嬉しさがこみ上げてくる。
 今さっきまでの感情などどこかへ飛んで行ったなと感じたところで、僕は振り返って駆け足で彼の少し後ろまで戻った。そう、僕の定位置まで。
「やっぱりここの方が落ち着きます」
 そう言って笑うと、彼は眉を上げて僕を見つめる。
 ふと彼の瞳が奥で微笑ったと、そう感じたときには彼は前を向き、何も言わずに歩き出していた。
 その瞳に見とれた僕は慌てて追いかける。
 彼のブルーの瞳に僕が映っていたのを思い浮かべた。あれはきっと初めてのこと。
 急に騒ぎ出した胸を押さえて僕は一人笑う。幸せだった。






 end.



01.自然に込み上げる、ただ不思議に思えるほどに