鏡に映るのは確かに自分の姿なのに。
「ねぇ鳴海さん。私がいなくなったら探してくれますか?」
部室の隅に置かれている姿見を覗き込みながら、ぼんやりとひよのが呟く。テーブルで頬杖を付いて雑誌を読む歩は、また変なことを言い出したなとでも言いたげに視線を持ち上げて嘆息した。
「…いなくなる予定でもあるのか」
「ないですけど」
「じゃあ意味のない質問だ」
やれやれと肩を竦めて、視線を再び雑誌に戻す。そんな様子にひよのは不満げに頬を膨らませて「…でも、」と続けた。
「いなくならない保証も、ないじゃないですか」
「…それはお互い様だな」
「私は鳴海さんがいなくなったら…」
「……」
ひよのが途中で言葉を噤んだので歩が再び視線を彼女に移す。彼女が何を言いたいのかはよく分からない。それを言うならば彼女の言葉の真意や意図や考えるきっかけ、本気で言っているのか冗談なのかさえ歩には分かれたことはないのだけど。
もし自分がいなくなったとして、彼女が自分を探す必要を感じたのなら。彼女には自分を探し出す能力も技術も機会も、十分に持っているのだろう。
そう、問題は、動機があるかどうか。
「うーん…」
「なんだよ」
「いなくなったら寂しいです、って言うだけで…探して良いもんですかね」
腕を組んで真剣に考え込む様子のひよのに、歩は「これはまた…」力なく微笑む。
「あんたらしくない考えだな」
彼女はいつだって自分に正直であり、そして他人に正直であり。主義主張を強引と言えるほどの力で貫こうとする。歩にとって彼女はそうだった。
「私らしくないですか?」
「他人の意向なんかどうだって良いのがあんたじゃないのか」
冗談ぽく肩を竦める歩に、ひよのも「そうでしたっけ?」くすくすと笑う。
「でも…もしいなくなるなら、記憶ごとそうしてもらわないと…本当に辛いですよ」
そしてそんなことを遠い目線で言った。
独り言のようだったので歩は何も返さずにそのまま雑誌に視線を戻す。ぱらりとページをめくりながら確かに思ったのは、「俺は忘れたくない」ということだった。
(…懐かしいな)
白い病室。
アルコールの匂いのする部屋。リノリウムの床も、天井も、自分の腰から下に掛かっているシーツも、窓の外の風景も。全てが白い。
思い出からふと我に返れば、静寂が一気に身を包んだ。
時が経った今でも、記憶は鮮やかだった。今この場にいない彼女を「いなくなった」と認識することに違和感があるほどに。
胸が張り裂けそうなのは、忘れることを望まなかったからだ。記憶に縋ったからだ。
ベッドの脇のテーブルに小さな鏡が立てられている。
視線をそれに向ければ、自分の姿が映っていた。自分を覗き込む彼女の瞳ほど、如実には自分を映してはくれないけれど。
(俺はあんたを探さない)
探す必要がないのは、恐らく呼べば、呼びさえすれば彼女はきっと来てくれるから。
けれどそうではなく。
(だってちっとも、いなくなってくれない)
考えて、その通りだと確かめるように頷く。自然に口元が綻んだ。
「俺はあんたを見失ってない」
あの日、鏡を覗き込んでいた。
そこに映る自分の姿を不安そうに眺めていた彼女すら、鮮やかに。
end.