どんなに擦り切れそうでも
 泣きたくなっても
 身も心もボロボロになっても

 その原因はお前であって欲しいと そう願ってるんだ





         6.『 幸 福 論 』






 家に帰る足取りは重く。
 早く帰りたい帰りたいとそう思っても、
 職場を出て その家に帰るまでの道程は決して心が弾むもんでもない。

 疲れた。

「はぁ…」

 あまりに盛大な嘆息が漏れて、ちょっと自分でも驚く。
 本気モードで疲れてるなコレ。

 とにかく家に帰って、布団に入ってしまいたかった。
 腹も空いたけど。
 冷蔵庫も空だけど。
 風呂にも入んなきゃだけど。
 メールもチェックしなきゃだけど。
 とりあえず今は家に着いたら玄関開けて鍵かけて、布団敷いて
 中に入ってそのままノンレム睡眠に入りたい思いでいっぱいだ。

 疲れるのに理由なんてない。
 ただ疲れてるんだ。
 理由を考える暇もなく。
 五月を過ぎた今、五月病なんてベタな言い訳もできないし。
 ゲッソリ疲れるほど環境が悪いわけでもない。
 今まで生きてきたちょっと平凡、ちょっと特別な(ホラ人間ってオンリーワンだから)
 そんな人生と何も変わり映えしないだろうけど

 最近疲れを本当に感じるのは何でだろう。

 ちょっと家を離れて、人里離れた場所で仙人として暮らしてみたい。
 …マジで。
 あぁ、でもそれも結構面倒かもしんねぇな。
 結局飯は食べるし。
 食べるなら美味いもん食いたいし。
 洗濯は洗濯機使いたい。
 水も水道の蛇口捻ったら出てくるのが理想的。
 ガスもだ。

 あぁ、こんなんじゃ当分仙人にはなれそうもない。
 昔みたいな自給自足、不便極まりない暮らしをしてのければ仙人になれるわけじゃないけど。

 ここまで考えて、自分の足元からずず、ずず、と面倒臭い音がするのに気付く。
 ひたすら靴底擦って、足引き摺って歩く。
 足2センチも上がんねぇの俺?と情けなくなるが所詮なんか他人事だ。

 いいんだ、俺は疲れてる。
 なんで?
 そこでまた堂々巡り。
 なんでこんなに疲れてんだ俺は。
 不満じゃない。
 不安でもない。
 満足でも安心でもないけど。

 繰り返す日常にマンネリしてんの?
 そんなんでこんなに疲労困憊できたら「疲れた」が流行語大賞とり続けるよこの国。
 …うわ、イヤな国だな。
 うわ、俺の頭ん中ではそんなイヤな国家が創り上げられてんの?

「はぁーーーー」

 気がつけばまたため息が漏れていた。
 さっきのより更に盛大、そして自分の口から漏れたそれに自分で挫けた。
 引き摺りながらも前進していた足が止まる。

 目線を数十センチばかり上に上げれば、どす黒い空に灰の雲が敷き詰められている。
 星も見えない。
 きっと今の俺には見つけられない。

 ひとまず疲れた。
 寝たい。
 死にたい。
 え、死にたいほど?
 いや死にたくはないけど疲れた。
 消えたい。
 え、消えたいほど?
 …もしかしたら消えたいほど。
 なんか疲れたな。
 不毛。
 何してんだ俺。
 何考えてんだ俺。

 考えてる内に、頭上に広がる空なんか目じゃないくらい真っ黒なものが
 自分の脳に敷き詰められていた。
 もういっそ何も考えらんねぇ。

 疲れた。
 何に?
 何かに。

 生きることに疲れた、なんてシブいこと言えるほど生きてはないけど。
 きっとそれとは違う。

 もっと俺は何かを求めてるんだ。
 それでどっかでエネルギー使って、それが今カラになってんだ。
 なぁ、誰かこれを充電してくれよ。

 どうやって?
 そんなの俺だって分かんねぇよ。
 何がカラになってんだか自分でも分かんねぇんだから。

 でも
 なぁ、誰か俺を充電してくれよ。

 気がついたら泣きそうになったから、慌てて上を向いてごまかした。
 風が都合よく吹いて涙を乾かしたら 目がドライになって痛かった。

 なんか惨めだね、俺。 

 だれか、たすけて。









 そして家の玄関の前に来て、はじめて気付いた。
 ずっと下ばっか見てたから気付けなかった。
 家は電気付けられてて窓からは明るい光。
 微かにテレビの音が漏れてくる。

 なんか自分の家じゃないみたいに暖かく感じた。それだけなのに。

 不思議に思って慌ててドアを開ける。
 すると自分のものじゃない靴が玄関に並べられていた。
 まぁ当然と言えば当然か。

 そしてリビングから出てきた人物を見て、はじめて俺は思い出した。
 今日このまま布団の中にダイブすることができないことを。


「おっかえりー三鈴くん」
「藍川…」
「何その顔?」
「え?」
 呆然と立ち尽くす俺に、藍川は怪訝な顔を向ける。
「…もしかして、今日の約束忘れてた?」
「……うん」
「やっぱり!」

 まぁ約束ってほどのことでもない。
 ただ飯食いに遊びに来るって、そう藍川から一方的なメールが来て、
 俺はそれに返事をしなかった(忘れてた)だけ。

 ていうか承諾の返事も来ないのに勝手に家に入るってどういうこと?って苦笑もんなんですけど。
 まぁそれも慣れっこな感じで。 初めてじゃないし。
 藍川だけじゃない、俺の合鍵持ってる奴らは割と多くてどいつもこいつもやりたい放題だ。



 靴を脱いでダイニングに上がり、台所に入ると藍川が後ろから付いて来た。

「今まで仕事だったの?」
「…うん、残業」
「お疲れ〜」
「うん…、」

 ホント お疲れだよ。
 そんな軽く言われると悲しくなるほどに。
 なんだろうな。
 俺何に疲れてるんだろう。

 お前が笑顔でここにいるからため息も吐けないよ。

「ワタシも今日残業でさ〜、手当てもちゃんと付かないのにうざいったらないの〜」
 ほのぼのと言うこいつの顔には、疲れは浮かんでなかった。

 なぁ、お前は疲れてるのにそんな顔してられるの?
 それとも本当に疲れなんか感じてないの?
 俺は今 どんな顔してる?

 お前が笑顔でここにいるから泣くこともできないよ。



「あ、 三鈴、ご飯食べてないっしょ?」
「うん」
「どーせ冷蔵庫何も入ってないだろうと思って、コンビニで弁当買って来たよー」
 そう言って誇らしげに弁当の入ったビニール袋を見せる。
 こいつは年頃のオンナノコだが料理はあまりしない。
 中を見てみると、俺が好きで結構よく選んで買ってた弁当が入っていた。

 帰ったら即熟睡に落ちたいと思ってたけど。
 ちょっと腹が減ったもんで、食べてみようかという気になった。

「座ってて良いよ、あっためたげるから」
「ああ…あんがと」

 考えたらさっきから生返事しかしてねぇや、俺。
 そんな俺をものともせず、藍川はニコニコしながら弁当手にレンジに向かう。

「……」
 うん。
 お前がいてくれて、今ここにいて 嬉しいよ。
 お前が笑顔でいて。
 俺はため息吐くことも泣くこともできないけど。

 どんなに疲れても、人に会いたくないっては思わないんだよな。
 正確には、お前とは居ても苦じゃないんだ。
 泣けなくても。
 溜まりに溜まったマイナスの息を吐き出すことができなくても。

 そう、お前のことが好きなんだよ。

 本当なら お前の顔見ただけで全てのことがどうでもよくなって、
 世界が輝いて見えたりして 悩みなんか何一つ無くなって
 その場でお前を抱きしめる、 そんな俺でいたいのに。
 そんな俺だったら良かったのに。


 肩が下がりきったまま、ただ立ち尽くしている俺を見て、藍川が苦笑した。

「何してんの? 座ってて良いってば。 ていうか座ってなよ」
「……うん。 ありがとな」

 今度はちゃんと礼を言って、リビングのテーブルの横に座る。
 藍川が飲んでたのか、すっかり冷めてそうなコーヒーが入ったマグカップが一個乗っている。

 テレビでは頭悪いことこの上ないバラエティ番組が放映中。
 スタジオから沸き起こるバカ笑いに、なんか更に泣きたくなった。
 何このテンション。
 俺一人この世界の空気乱してるみたい。

 本当に目が潤んできて、慌ててテーブルの下のティッシュを取って目に押し当てる。
 空いてる手でリモコンを取って、テレビを消す。
 一瞬で部屋が静かになった。
 二人の人間が呼吸してるわけだから、静寂とはいえないけど。

「何してんの〜?」
 そんな中、温めた弁当を手に藍川がリビングにやって来た。
 ハイ、と言いながら俺の前に弁当と割り箸、そして缶コーヒーを並べる。
「サンキュー…」
「元気ない?」
「…いや、そんなことは」
「そう?」

 俺の顔を覗き込んでそう言ったきり、藍川はそれ以上何も言わずに隣に座った。
 そこでちょっと、彼女の口から小さな嘆息が盛れた。
 だらん、とそのまま後ろのソファに凭れ掛かる。

「……」
 俺は特に反応もせずに、箸を割って弁当を突っつき始めた。
 こいつも疲れてんのかな。
 まぁ、疲れない人間なんていないか。
 俺は最上級に疲れてるとは言っても、他人の疲れを感じたことはねぇし。

「美味しい?」
「え?うん」
「そ。 三鈴いつもそれ食べてるしね。 覚えてたんだよね凄いでしょ?」
「す、凄ぇな〜さすが藍川さん」
「フッフッフ」
 そんな反応で満足なのかそれともどーでも良いのか、
 藍川は口の端を持ち上げて微妙な笑みを浮かべた。

 テレビもついてないから、会話がないと非常に気まずい静けさが流れる。
 俺が弁当食ってる一連の動作しか音が無い。
 藍川といえば、隣でソファに凭れ掛かったまま、ひたすら天井を見上げていた。
 あまりに会話が無いから、無理やり話しかけようとしたんだけど。
「何見てんの?」
「ん〜?天井」
「ふーん…」
 と、面白みなんか全く感じられない乾いた会話が交わされてしまった。

 隣のヤツは、今 何考えてるのか全く知れない。







 ひとしきり弁当を掻き込んで、予想以上に腹が空いてたらしく全部平らげてしまった。
「ごちそーさまでした」
 そう言って缶コーヒーに口をつけながら横目で隣を見やると、
 彼女は先程と全く変わらない体勢で天井を見続けている。
 何かあるのか・と思わず俺も天井を見てしまったが何も無かった。


「……お前、今 仕事何やってんだっけ」

 口に出して、しまったと思った。
 仕事の話なんかしたくないのに。

 すると藍川はゆっくりと顔を俺に向けて、小さく笑った。
 何を意味するのか分からないけど、とりあえず魅力的な笑みだったのでちょっとどきりとしてしまった。

「しがない製紙業の注文請負だよ」

 大げさに肩を竦めながら言う。
 本来なら、ここで「俺は何々やってんだよ〜」とか言って、愚痴大会にでも移った方が良いのか。
 でも俺は何も反応できなかった。

 しかし藍川は、俺が呆然と何も言わないのをいいことにか、言葉を続ける。
「やっと仕事の話になった」
「?」
 やっと? 仕事の話に…なった?
 仕事の話がしたかったのか?

「んで、三鈴の顔見れたからやっと言える…」
「??」

 もったいぶった言い方に、眉を寄せると。
 藍川は笑顔のまま、盛大なため息と共に吐き出した。


「あーーー疲れた〜〜〜!!!!」



「…………」
「本当ありえないんだよあの会社〜。 本当毎日疲れてドロドロのバテバテだよいっつも。
 本気で辞めたいとは思ってないけど! 本当死ぬあれ」
「……」
 俺はいっそ、どんな顔すれば良いのか分からなかった。

 確かに、ここで愚痴大会、ストレスぶちまけ大会に持ち込むのがフツーか。
 でも、俺は何だかイラついてしまった。
 俺の前で平気で「疲れた」とか言うコイツに。
 俺の顔見たからこそ疲れたって言えるって、そんなコイツに。


「…俺の前で疲れんなよ」
「何それ?」
「俺はお前の顔見れてるだけで嬉しいって思ってんのに、疲れんなよ」

 そう。
 俺はお前がいるから お前が笑顔でいるから
 疲れたなんて吐き出すこともできないのに。
 大したことない言葉だけど、疲れたなんて吐き出したらホントにくたびれちゃうだろ。

 だからこの言葉 本気で飲み込んでんのに。

 お前が お前がいるから。


 顔にも苛立ちが浮かんでたかもしれない。
 けど藍川はそんな俺を見て、きょとんとして言った。

「それは三鈴の愛情表現でショ」
「…」

「ワタシの愛情表現ってばこれなの」
 そう言って体勢を変え、呆然としたままの俺の首に細い腕を絡めてきた。
 凭れ掛かりながら一言、
「疲れた〜三鈴くーん〜抱っこ〜〜〜」
「…気持ち悪いんですけど」
 ぎゅっと抱き付く細長い女を押し退けようと手を張りながら、呆れ声で言う。
 しかし思いの外しがみつく力が強い。
 結果観念して俺もそいつの背中に腕を回して、あやすように背中をポンポンと叩いた。

「もーさ〜他の人には平気平気!ばっか言ってるから余計疲れが溜まってさ〜。
 ホント疲れた!すっごーーーく疲れた!!もうクタクタ!」

 『疲れた』の叩き売りが始まる。
 俺はもうハイハイ、と相槌打つだけだ。

 お前に疲れたって言わない、それが俺の愛情表現だもんな…。
 そしてこうやって疲れを素直にぶちまけるのがお前の愛情表現か…。

 複雑な感慨に耽る俺をよそに、藍川は延々と職場の愚痴を吐き出した。

「もう本っ当足もガクガクなんだけど、三鈴ん所なら来れるわけですよ」
「…」
「ここ以外ならどこへも行けないよ。 疲れたってーの〜」
 ガキのように俺にしがみ付いて甘ったれる女の口から、零れる言葉達。

 リズムとって優しく背中を叩くのは止めて、俺はこいつの身体を思い切り抱き締めた。
「…っ!」
 突然急な圧力が掛かって、藍川が驚いた様子があったけど
 俺は構わずに折れそうなほど力を込める。
「…ちょ、ちょっ…くるし……!!」
 呼吸困難を訴えて、バシバシと背中を叩かれるが、それも無視。
 肩口に額を乗せて、俺はこっそりと笑った。


 お前の前では 俺は疲れることなんて、出来ない。
 困憊した姿をお前に見せるなんてしたくねぇんだ。
 
 くたびれてるお前の前で、俺はこれからいつでも笑ってることにする。
 笑える力をくれてるのはたぶんお前だ。

 お前は 俺はいつも楽でいるわけじゃないってこと
 知っててくれてんだよな。
 だからこうして、

「……」

 視界の隅にテーブルが入った。
 カラになった弁当箱とコーヒー缶、そして藍川の飲み掛けのカップが並んでいる。


 こうして、
 「疲れた」って 言えない俺の肩に凭れて
 いつまでも 体重預けさせてくれてる





 背中を叩く手に力が入っていないのを感じて、漸く胸から開放してやる。
「ゲホッ、はー、まったく…殺す気かって…っ」
 肩で息をしながら、彼女の顔は笑っていた。
 俺も笑っていた。

「愛しい奴だねぇ、…藍川」
「何、疲れ吹っとんじゃった?」
「最初から疲れてねぇよ」
「あはは」
「…」

 朗らかに笑う藍川の笑顔につられて、俺も笑った。
 力の入らない、体力の限界に来た身体で。

 そして泣きたくなった。
 なぜだか泣きたくなった。

 でもこいつがいるから、こいつが笑ってるから泣きたくなかった。
 だからせめて、聞いてみた。

「泣いて良い?」
「なんでそんなこときくの?」

 半笑いで尋ねた俺に、藍川は真剣に首を傾げる。
 だからかえってどう返せば良いのか口ごもっていると、
 腕を伸ばして、俺の肩を掴んで言った。



「三鈴が泣きたくなるのと、泣くことはセットだよ。
 ワタシの前ではそういうことにしといて」

「……」


 なぁ。
 なんなの お前。
 泣くつもりなんて全くないのに

 どんなに疲れても、限界でも
 お前の前で泣くなんてありえないと思ってんのに


 うわぁ、マジで 泣きたくなる
 ホント お前、



「泣きたくなんのと、泣くのがセットって…そんなんで良いんですか」
「さぁ? わかんない。他の人では通じるかわかんないけどね」

 ワタシには通じるよ?

 そんなことを言って、笑った。




 本気で泣きそうになって、天井を見上げた。
 上を見れば涙が零れないって坂本九が言ってた。(?)

 でも、天井を見上げて気付いてしまった。

 俺の肩に腕を組むこいつが、さっきまでずっと何も言わず天井を見上げてたこと。
 話しかければ笑ってたこと。
 疲れたって吐き出す間もずっと笑ってたこと。

 ずっと、俺が弁当食ってる間もずっと 天井見上げてたこと。何も言わないで。

 なのに 言葉を紡ぐときはいつも笑ってたこと。
 泣きたいなら泣けと言ったときにも笑ってたこと。



「もう、なんなのお前…」
 上なんか向いても無意味だった。
 零れた涙は止まらない。

 なんなんだお前は一体。
 真剣に尋ねてみたら、

「さぁ?でもキミが好きだよ」

 そう言った。







 俺はくたびれた身体でもう一度 くたびれたこいつの身体を抱き締めて
 そうして幸せを噛み締めて泣いて

 ひたすら疲れるまで。












   終








09/12/22

久し振りに名前ありの話。
三鈴慶(みすず けい)と藍川千穂(あいかわ ちほ)
20代半ばくらい。
男同士でも良かったんだけどBL風味にしたくなかったので男女にしてみた。
友情でいいのに「好き」とか愛情って言葉出したらBL風になってしまうこの世界が歯痒い

過去(4年くらい前?)に書いた話をリサイクル。
さぁ元の形が何だったか分かる方はどれだけいるか(笑)


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