4.『 性 格 』




 最近性格が変わった、と急に自覚してしまった。
 実際に友人達にも最近性格変わったんだよね・と言ったしその自覚が急に来たんだよね・とも言った。 だが恐らく友人にとっては最近より前の私も最近以降の私も大差ないだろうし変わったというよりは変えた・が正しいんじゃないの?と思ったことだと思う。 私も友人がいきなり性格変わったんだよね〜と言って来たらスイッチオンでハイ別人か?とか思う。

 だが問題は私が自分に違和感を感じているということであり、生まれて来てから一番長い時間を共にしていてほとんどを共有し理解していると思っていた自分自身がベツモノになったような気がするというのはかなり不安の種だった。
 誰もが多重人格というシリアスな症状ではなくとも自分の中に何人かの自分を飼っているものだと思う。 というよりもこんな自分、あんな自分、そんな自分の設定。 自分てこんな一面もあったんだなぁ、などとしみじみ思うこともあるけれどそれは意外性のある自分、を即座に設定できるからだと思う。
 私という個体の名前は『椎葉 梢』。 そしてこの中には普段大抵2人ないし8人くらいのシイバコズエさんが棲んでいる。 この具体的な数字は自分で数えたわけではなく、ある物事について考え方や視点を挙げてみろとか言われてこれくらいは弾き出せなきゃネ、という自分の理想像だ。
 それはつまり私が複数の視点から物事を考えてみろよと言われてああこの考え方・それはシイバAが考えたことにして、あーいう考え方もある・それじゃあこれはシイバBが考えたことで。 シイバCはどう考えさせようか…の如く、設定が後回しになっている。 行動の動機の後付けと同じ。 体裁は出来るだけ綺麗な方が良いと思う。 計算の上で乱された体裁はそれなら綺麗だと私は言える。

 そんなことを考えている私の性格は一つでしかない。 頭の中に普段2人ないし8人くらいのシイバコズエさんを棲まわせている・と思っている・できるだけ物事を多角的に、そして整然と捉え、可能な限り取繕うことに尽力する。それがシイバコズエの性格。
 しかしそんなことを考えていると逆に私の性格は決して一つではないようにも思う。
 例えば道に財布が落ちていてその中に万札が入っていて諸々のカードが入っていて、そして免許証が入っていれば私は迷わずに拾い持ち主に届ける。 身分証が入っていなければ私は迷わずに交番に届ける。 万札の枚数によるかもしれないが実際のところはよほどの窮地に立たされていない限り手をつけずに届けると思う。 よほどの窮地の程度問題にもなるが基本的に私は常にギリギリの所で必死に生きているつもりになっているので結局は届けると思う。
 そういった行動パターンを性格とするならば、私の頭の中に何人の人間を飼っていてとかそういう話では括れなくなる。 頭の中に2人ないし8人の自分を棲まわせていると思っているほどに物事に対し多角的でありたいと思っている・というのが私の性格その1。 そして拾った財布は必ず届けるという私の性格・箇条書きその2が出来上がってしまう。

 店で頼んだカレーに髪の毛が入っていてそれをうーんと思いつつも言い出せず、まぁ髪の毛一本くらいと思ってしまう私。
 横の誰かのカレーに髪の毛が入っておりその人が激昂していたとしたならアララと思いつつも髪の毛一本くらいでうるせぇなそれくらい勘弁してやれよコックさんが心を込めて作ったカレー、美味しかったとか美味しくなかったとかで感想を述べるならまだしも髪の毛が入ってて食えるか・はあまりに不憫だろう。 試合が始まる前に体育館を吹き飛ばすなんて悪の所業だ。 などと思ってみたりする。 髪の毛の本数や長さの程度問題と言われればまぁそうなる。
 そして虫が入っていたらさすがに私もクレームを出す。 虫が嫌いだから。 カレーに入っていた虫に激昂している私の隣の人が、虫くらいでうるせぇなそれくらい勘弁してやれよコックさんが心を込めて作ったカレー(以下略)とか思われている可能性も大いにある。 そう思われていたってお構いなしだ。 髪の毛が入っていたカレーにクレームを出す人間が私が隣でどんな目で見ようとお構いなしなのと同じように。 要はその線引きは私に委ねられている。 私が不快に感じるか否かの線引きは当然だが他人には引けない。

 これで私の性格その3とその4が箇条書きに加えられる。 カレーに髪の毛若干入っていても許せる私。 カレーに虫が入っていたら許せない私。
 勿論、カレーに限ったり髪の毛や虫に拘らなければこの箇条書きパターンは悠に桁を飛び越えて、アルファからオメガどころでは済まなくなるはずだ。
 つまり性格とは具体的に明瞭にハイコレが私の性格です・なんて言えないものなんじゃないか?と思ってみる。 当然のことなのかもしれないけれど、それを言うならばみんなは当たり前のように簡単に性格と言う言葉を使いすぎる。

 性格占いとして、血液型占い・星座占い・動物占いはメジャー過ぎるとは思う。 ああ当てはまるネとかと思ったり言ったりしていても、それなら自分の性格って世界人口数十億を4ないし36で割ったくらいのものになる。 気が遠くなるほど凡人で無個性。 誰もが。
 パターン数では多い方である誕生日占いは365(366)通り。 私はこの誕生日占いが好きだ。 「11/29生まれは直感力に優れ、審美眼に富む」と良いように褒められるからだ。
 短所としても「11/29の短所は繊細すぎることにある」となんだかちょっと褒められているような気すらする。(実際に繊細すぎるというのは親しい人間にどうしようもない苛立ちに似る歯痒さを与えることもあるだろうが)
 そんな11/29生まれだが勿論この世にはごまんといる。 同じように褒められ短所を指摘される人間がごまんといる。 しかし私はそのごまんといる人達と同じ性格であるとは当然ながら思えない。
 例えば私は尾崎豊と同じ誕生日なので、彼が誕生日占いの11/29ページを開いたとしたならば私と全く同じことで褒められ諌められる。 だが私は尾崎豊とは当然違う。 別人であるどころか彼に共感できるものすらあまり無い。 私は卒業式に私は一体何を卒業するのだろうとか悩むこともなければ盗んだバイクで走り出すこともない。 夜中の学校にバット持参して窓ガラスを叩き割って回るような暴力性も無い。 ついでにあのカリスマ性もない。(ファンにとってはこれが一番主張するところだろうけれども)

 こんな風に崩していくことが容易い占いだが、それならばやはり性格とは何を示すのか。 辞書によれば性格とは

 (1)その人が生まれつきもっている感情や意志などの傾向。
 「彼とは―が合わない」
 (2)ある物事に特有の傾向や性質。
 「事件の―を解明する」
 (3)〔心〕〔character〕その人特有の行動の仕方、ならびにそれを支える心理的な特性。特に感情的・意志的な側面をいうことが多い。キャラクター。

 とあるが私が欲しい意味を教えてはくれない。 しかし辞書は残念ながら私より早く生まれ多くの者に支えられている。 つまり私もその意味を飲み込むしかないのだ。

 それならば発想の逆転というよりも新たな疑問。
 性格とは自分自身特有のものだという認識自体がおかしくないか?
 性格とは感情や意志などの傾向でありそれ以外ではない。 先程述べたように物事への行動パターンや思考傾向は無数に存在し、それの組み合わせを総括したものは恐らく無二のもの・つまりその人特有のもの。(人格、というのだろうか) だがその傾向パターン数はあまりにも多過ぎてたとえばAからZある内AからYまで同じだがZだけが違う場合違う性格になっていくわけで。 だから便宜上具体的に4ないし36(がんばって366)通りのパターンにぶつ切りにしてヒット率の高いモノの名前をアナタの性格と呼んでね、としているのだろうか。
 私はB型の性格であり射手座の性格であり11/29生まれの性格であるとは言えるがシイバコズエの性格であるとは言えない。 シイバコズエの性格・という例が相手の広辞苑に載っていないから。

 それならば私の性格を語ることなどできないではないか、と思ってみて更に発想の逆転。
 性格とは語るものでなく物事を性格で語っているのではないか?
 性格とは語るものでなく相手を理解する際に言葉でなく理解する。 他人の理解というのはやはり知能指数の高い方が有利だ。 多くのその人の行動パターンを少量の言動で計算しカテゴリ分けを行い、そして相手の印象でそれを善意で分けるか悪意で分けるかを瞬時に判断するから。

 そう私は自分自身とよく対話していたとは思っていても、おそらく私と私自身の会話とは私と私の友人の会話ほど性格を用いて語っていない。 私の性格とは?の問いは私よりも友人が上手に答えるし応える。
 だから私自身が性格が変わった、と自覚していたとしてもそんな今更ひょっこり頭を出してきた私の要素に友人は逐一驚いたりはしないのか。 だから友人が性格が変わった、と言ってきても君はそんな人だったよ最初から、なんてしれっと言えるのか。

 私が最近どのように性格が変わったのかというと物凄く短気になった気がする。 少し前は、「でも前から短気だったよ外側に出さないだけで」などとほざく余裕があったのに。
 しかし今は短気である自分をおして寛容を気取る余裕がまるで。 スーパーのレジ、私の聖域の向こうの非常識に腹を立て、その非常識を引き起こす元凶に腸が煮えくり返り、兄弟に親にちょっとソレは言い過ぎでないかい、な罵詈雑言を胸の中で秘める。
 しかし実際に口にしてはいけないことは言わないし、物に当たったりもしない。それをしてしまうと自分の中の最低ラインを侵すからだ。 私は自分に嫌われてしまうことと取り返しがつかないことをとてつもなく怖れる。
 なのでそのような自分にとっての脅威に臆して言動を律することが出来るくらいには私は短慮でない。

 ならば何が変わったのか?と言われれば、出すか出さないかでない、怒りを容易に湧き上げるようになったということで。 怒りを出すか出さないかでなく、怒りブースターに光が点るまでの長さが短いこと、それを短気であると私は思う。
 これはあくまで自分に対してのものであることを前提として、以前の私はその怒りメーターが溜まっていくのがすごく遅かったと思う。 はっきり言って亀の如し。 面倒だったからだ。 大体怒るようなことをされたとしても別に大した問題じゃね?くらいだった。 そう、余裕があった。 どうであっても大丈夫だろうという自信があった。 自分を過大評価していたのかは分からない、少なくとも過小評価していなかったけれど。
 私には出来ないことがある分私はそれをできないと判断するだけの力があり、そして出来ることも多数あることを知っており、それには出来る限りの力を尽くしたいそうすればいいさ・とか考えているその精神を自分の長所だとか悠に構えることができていた。

 しかし変わった理由は自分には無理、自分には何も出来やしないのではないかという思いが一気に沸き起こるようなことが立て続けに起こってからだった。
 それらは間髪入れずに私を苛んで私の時間を毟り取り私に無力を叩きつけそして未だに燻っている。

 不安の種をそこら中に撒き散らし、そして丁寧に水をやり続けてきたのは私自身だということも知っている。 だが私の敵は私自身でしたなどと結論付けている余裕も今の私にはない。

 とにかくこの一連の事件は私に神経質にディフェンスばかりさせた。 そう私は言葉が好きで言葉を知り、言葉の意味に対し神経質でその意味を欲しそして何より言葉が怖い。 認識とは直感ですら言葉に置き換えることが出来るから時間をかけさえすれば全てが脅威となる。
 私は多忙と、敗戦と、敗因と、多忙と、窮屈さに、今の自分が言葉一つで崩れてしまうことを悟った。
 護るにはダメージを受けないこと。 受け止めることができなければ撥ね付けるしかない。 だから赦せないし許せない。 今まで甘んじていたものも甘んじられなくなった。

 辿っていくと、変わったのは私の性格でなく環境。
 環境により私の本能が自己防衛をはじめ私は短気になった。 しかし短慮になる前に余裕を取り戻さねばならないことを理性は知っている。 その方法も。 私の物事への思考の傾向や行動パターンは何も変わってはいない。 変えると決意しない限り変えられないものなのだ。 私が自身のバイオリズムを言葉一つで律しきれなかったように。 強く強く決意しなければ。 それを行動に移さなければ。

 性格は流されはしないが環境は流されるし流れていく。 流動するものは名前を変えれば裏切る。 こうであると決められるものはない。 どうかこうであれと願っても変わって行く。

 そう、私が大袈裟にある日天から啓示されたかのように想った性格の変化の自覚は、なんてことはないただの、最近ちょっと忙しくて立ちどころを失ってさ〜自他への寛容さを失っているんだよね〜 という状態の自覚に過ぎない。 昔から続けていた自己分析を私は習慣にし過ぎていたのに、いや習慣にし過ぎていたために間違ってしまったのだ。

 そうして煮詰まって終了ということになる。
 だからもう大丈夫、ちゃんちゃん。なんて言葉で締め括れるものではなくとも。 終わるものは終わるし始まるものはもう既に始まっている、今現在も。








   終








09/04/04

はじめてこのシリーズのキャラに名前が出ました。
椎葉 梢さん。(いわゆる厨二病。19歳。)
11/29生まれ、射手座のB型。某大型ショッピングセンターのレジ打ち。
図書館司書になりたかったんだけど大学に行けなかったため今度は受験資格の無い税理士の資格を取ろうと目論んでいたが20パーセントも解けなかったという無残な落ちっぷりで既に諦めてしまっている。
最近の悩みは現在の接客業が板につきすぎて何の方向性も定まっていないまま正社員に登用されそうになっておりこのままで良いのか自分、と辟易している。

超昔書いてたネタに肉付けしたくて、でも誕生日考えるの面倒だったので私の誕生日にした。尾崎のくだりは前々から考えたこと(笑)
このシリーズの人達全員ちゃんと細かい設定つけてるんですが話の中で全く出す機会が無い。
しかし一人称ってほんと書くの楽しいな〜(*´∇`*)


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