3.『 徘 徊 』




 何も持っていない私が、何か失う筈は無かった。
 何処にも向かっていない私が、道に迷う筈は無かった。
 そんな私がいつの日か何かを抱き締めていたのなら、それはたぶん『失うべきではない』愛おしいものなのだろう。
 そのイトオシイものと同じ方向を向いて、同じような歩幅で進んで行けるのなら その先は恐らく『光さす場所』なのだろう。


 けれどいつの間に、こんな霧の中を。
 霧のたちこめる鬱蒼とした森の中を。
 歩き始めて一体どのくらい。


 きっかけなんて知らない。
 いつの日か何も無い私の手には、掛け替えの無い宝物が握られていた。
 誰しもの目に美しく映るものでは無いかもしれないけれど、少なくとも私はコレを侮辱するものがあるのなら憤然と立ち向かって行くだろうほどの、そんな私自身の誇りに根付いてしまったタイセツなもの。
 相手にとっての私もそうだったんだろう。素直な性質のあれは有り難いことに、あれにとっての私も宝物のような存在であると言ってくれた。 その言葉に私はあれを私の世界の中で、今まで生きてきた十数年の間に広がったばかりの私の世界で一際輝く宝物であると確信した。
 実際に手を握ったことはないけれど。私達の心はいつでも一緒だった。

『あなたが イチバン タイセツ だよ』

 それは今になって思う、共犯の同盟宣言。
 世界をワタシとアナタ、その最小単位で閉ざして鎖国してしまう、罪。
 誰にとっての罪かはわからない。人にとっては罪でも何でもない。
 私やあれがこれから出逢う、掛け替えの無い人達を無知ゆえに・世界の狭さゆえに哀しくさせてしまうことの罪。


 時が経ち、あれが私のいる場所から物理的に遠く離れてしまったときには、不幸にさえ思った。同時に、失うものの無い私がそこまで思うくらいの存在がこの手にあることの幸せに気付いてしまった。
 私にとってあれがどれほど大切か思い知ったときには、ただ沸き起こる尊崇の念。自身をゴミ同然だと思っていた私は、私の手の中で光輝く宝物を持つに相応しい人間にならねば恥だと思った。 それからは、理想を追って走る日々。自分自身を理想の自分に近づけるために。
 真っ先に始めたことは、世界を広げることだった。
 今まであれ以外は近くに必要ないと思っていた私だから、随分と狭い世界を生きていたことは知っている。必要ないと思っていたからそうして来たのだ。けれどこれからはもっと広い世界に自分を触れさせ、そうしてあれに相応しいような深い思慮と広い視野を身につけようと、私はそんな意味で自分を磨きたかった。そうして他の人間へ、私の視点は外へ外へと向かった。今まで閉ざされていた瞼を開き、きつく握り締めていた拳を解き、様々なものの触感を手繰り始める。
 そして知ってしまった、深い深い溝。

 狭められた世界、自らそうしてきた世界。そんな中で自分達だけの価値観だけで語り合ってきたのが、急に他人の宇宙に触れたのだから。
 私の世界は溢れて、揺れて、崩壊した。
 暗がりでしかないと思っていた場所のそこかしこに散らばる、素晴らしいものが、価値あるものが。私の内側を叩いた。
 そしてそれらと遠くにいるあれを天秤に掛けるつもりなど無かったはずなのに。少しずつ少しずつ、削られるように生み出された溝。

 知る前には戻れない。
 今私の前に広がる輝かしい人間達、可能性。色で溢れ音楽に満ち、苦くも甘くも熱くも冷たくもある。
 極上の幸せとは世界が広がることだと知ってしまった私。
 かつてあれ以外必要ないと思っていた私、確かに魂であれと繋がっていた頃の私は幸せでしかなかった。ただひたすら他のことを知らなかっただけだとしても。
 知る前には戻れない。
 知ってしまった今、戻れないと知ってしまった今。そしてこの手から零れ落ちてしまったもの。
 私の前にもしこうなることを知らされた上で選択肢があったなら。
 私はどちらを選んだだろう。
 私の幸せなんてとても数少ないもので満たされるのに。片方しか得られないものばかりで、全ては"取り返しがつかない"をあまりに繰り返しながら辿っていて。
 どちらが、なんて考える必要も無いほどに取り返しがつかないものなのに。
 今こうして思考を止めないのは後悔でも罪悪感でもない。
 ただひたすらの恐怖。
 私は今どれだけの選択肢を踏み外してきただろうか。
 私は今どれだけのものから視線を外し、どれだけのものを知らずにここを笑って歩いているのだろうか。
 そしてあれは。
 私にとってかけがえのない、あまりに大切すぎたあれは。今何を感じどこを歩いているだろうか。
 考えることは寂しく、哀れで、恐ろしく、そしてあまりにも詮無い。
 それだけ知っていても尚、私は螺旋の階段を、或いは起伏の平面を歩き続けている。上っているか降りているのか、進んでいるか後退しているかもわからないまま。
 ただ解るのは、私が今向いている前に進むように、私の身体がそういうつくりになっているのに沿って進んでいるということ。
 確かに幸せであるけれど。考えずにはいられない。だから私は考え続けるだろう。
 ただ考えるのは、私がそうである何倍もあれが幸せであって欲しいということだ。罪悪感でも後悔でもなく、この瞼を開くきっかけとなったことに感謝を込めて。
 共に幸せになりたかった、そう思うのもそろそろ霞むだろう。そしてまた一つの思い出が消える。新しく手にしたものと引換えに。
 どんなに忘れても消え去りはしないほど増えて増えて増えていた思い出。共に築いて来たと、あれが私にくれたと言えるだけのもの。それよりも段々と他のものを思い出す機会を増やしながら、名前を想う回数を段々と数えることすら忘れながら。自身の不義理と誠実とはとを考えつつ、それでも無感覚にはなりきれずに胸が軋むその音を聴きながら。
 私は確かな足取りで、それでも優先順位だとか好き嫌いの二面性その背後にある天文学的ともいえるほどの思慕に気を取られながら、徘徊し続ける。思考は止めない。この想いは、あの頃の私やあれや、今の私の周りに在る全てへの宣言とも言えない、いわば迷子札のようなものながら。








   終








09/02/28


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