まだその日はこないけれど 天が高く、いつにも増して空が青く澄み渡る。 もう秋か・そうぼんやりと考えながら、シタンが手を空に翳した。 夏ほど日差しが強くはなく、手をどけてもさほど眩しく感じない。 ふと、後ろから誰か近付いてくる気配がした。 シタンは上に翳していた手を下ろすと、ここを離れようかそのままでいようか少しだけ迷う。 結局その一瞬の間に真後ろで足音が聞こえ、同時に声を掛けられた。 「ねぇ、先生」 「何ですか、フェイ?」 その声の主は分かっていたから。 声を掛けられるまでもなく振り返り、シタンは柔らかく笑んでその名前を呼んだ。 いつも変わらない穏やかな目と、温かさの零れる声。 安堵したように笑うと、フェイが歩み寄って隣に並ぶ。 横に並びシタンがそうしていたように手を空に翳し、しかし黙ったままのフェイに、シタンは少しだけ眉を寄せた。 「フェイ?」 どうしたんですか、と続けようとした言葉が遮られる。 「先生は俺とどんな約束をしたのかな?」 「…すみません、言ってる意味がよく…」 何の前置きもなく始められた言葉は、まさしく意味を図りかねるものだった。 「……」 「……」 暫く待ってみるが、それきり相手は言葉を続けようとしない。 シタンは困ったように笑い、「…フェイ」その顔を覗き込むように首を傾げる。 「途中できらないでくださいよ」 「俺は質問したじゃない」 先生の方が話を途切れさせたんだよ・と言わんばかりの口振り。 「意味がよくわかりません・って言いましたよ」 「俺の質問の意味が?」 「そうです」 あまりの歯切れの悪さに困惑する。 随分遠くなってしまったラハンでは、温もりと思い遣り、あらゆる優しさが彼を包み、護っていた。 それに呼応するように彼は明朗で陽だまりのように温かい笑顔を振り撒いていたのに。 その幸せを塗り潰すように、無名の影が、彼を苛んでしまった。 それは彼の心の隅に潜み、時々だけ、陽炎のようにゆらりと彼の爪先から這い出てくる。 全てを知っているシタンですら、眉を顰め息を詰めてしまうほどに痛々しく。 一見普段と変わらずに明るい声で、少年はうーんと腕を組んで考え込むように口を開いた。 「なんていうか…俺は先生に逢おうとか、そういう約束をした覚えはないんだよね」 まぁ、文字通り何も覚えてないんだけどさ。そう言ってフェイが軽く笑う。 「私だって、ないですよ」 「なら、なんで俺と先生は出会ったんだろうって」 「……」 「先生とだけじゃない。エリィとも、バルトともリコとも…誰とも、俺は何の約束もしたことなかった」 「そういうものではないんですか?」 「でも、なら、どうして出会ったのかな」 「………」 真剣な声。 隣を見やると、フェイは真っ直ぐに空を見ていた。 空を見ているのかは分からない。 少し視線を下ろせばそこに横たわる地平線を見ているのか、ただ隣の木々を見ているのか。 もしくは何も見ていないのかも、分からない。 ただその目が真っ直ぐであることだけは認めて、シタンは下を見た。 穏やかな風が、少しだけ冷気を帯びている。 秋の訪れと共に肌寒くなっていくんだろう・そんなことをぼんやりと考えた。 ぴゅんと吹く風に、湖の水面に波紋が出来て、消えていく。 夏の次に秋がくるのは約束みたいなものだと思う。 秋の次には冬がくるだろうとわかる。 きっと約束みたいなものだと。 考えるよりずっと当たり前で、その予想は裏切られることもない。 けれど、人の出会いはたぶん違う。 会いたいと思ったから会ったわけではない。 別れたいと思ったから別れたわけではない。 少なくとも、自分にはそうでなかった。 では、なぜ? 考えても詮無いに決まっている。 それ以前に苦手だった。 考え込みながらも蓋をして、その浅い部分に広がる暗がりを撫でるように結論を出すのが常だったように思う。 結局どれくらいの沈黙が流れたかわからないけれど。 「…私には、わかりませんね」 そう答えた。 隣でフェイがコロコロと朗らかに笑う。 「先生でもわからないことがあるんだね」 そんなことを言った。 『先生』親しげに自分をそう呼び、懐いてくる少年に対しては何でも答えられる自分でありたい。そう思っていたけれど。 あの平和に平行した村を出たとき、自分が彼と共に答えを見つけていくこと、彼自身が答えを見つけるべきこと、そんなものが随分多く出て来たように思う。 シタンが考え倦んだまま何も言わずにいると、意に介さずフェイが言葉を続けた。 「じゃ、運命かな」 「……運命、ですか」 運命。 耳に馴染みのある言葉だ。 運命。宿命。最後にこの言葉を聞いたのは、意識したのは、いつだっただろう。 「でもこの言葉、呪文みたいだよね」 「じゅもん?」 鸚鵡返しに訊き返すと、フェイはふっと笑って、また先程のように視線をどこか遠くへ向けた。 「運命って言っちゃえば、全部がそうなるんだよな」 「…」 「運命っていうモヤモヤした世界の中に、全部を引き込むための呪文みたいだ」 「……」 言葉は淡々と紡がれていても、その横顔はどこか泣き出しそうに見える。 返す言葉を探すシタンに、フェイがゆっくりと探るような視線を向けた。 「先生が俺を助けてくれたのも、…俺を助けてくれたのが先生だったのも、運命なのかな」 「……」 「…運命だったら、絶対だって感じがするのに、なんか曖昧なんだよな」 「……」 彼はどんな言葉を望んでいるのだろうか。 自分が彼と出会ったのは、自分や彼の空間を越えた別の世界と呼べるようなものの意思だった。 彼を助け、逃さず、見定める。それが運命だったら何になるのか。 いつからか彼を護り、支え、癒すことがこの両手の使命であれば良いと、思うようになれたのだろうか。 これから起こる、彼を巡る血を流すように赤いさだめ。 そのときこの両手は彼の剣や盾に、なれるのだろうか。それとも。 彼は『運命』と口にした。 彼が誰かと出会うことが。 その誰かと別れることが。 運命だと定義出来るのなら、彼は何を思うのだろう。 長い沈黙の後で、ぽつぽつと紡がれた言葉。 息をゆっくり吐き出しながら、シタンはフェイを見つめた。 「……約束だったら、よかったのに」 その声が酷く掠れていたのは、泣きたかったからか。シタンには分かれない。 「…え?」 「約束できるなら、よかったのに…」 出会うことも。 予め約束していたなら。 別れることも。 予め約束していたなら。 どうして、なぜと理由を捜さないで済んだ。 いつ来るかわからない別れの不安に怯えずに済んだ。 「後になって運命なんて言われて、無理やり納得させられるなんてすごく気持ち悪いよ」 「……そうですね」 温かく、思慮深い声にフェイがシタンを見やる。 シタンは複雑な顔で、けれど穏やかに言った。 「でも、私はあなたに会う約束なんてしなかった。だから運命でもいいんじゃないんですかね」 「……」 「それに別れる約束だってしません。だからもし別れが来るなら、それは運命でもいいじゃないですか」 「………そっか」 「……」 「そっかぁ…」 いやだな、納得するのは。 そんな風に納得してしまうのはさみしいよ。 そうぽつりと呟きながらも、フェイは頷いた。 「…」 その途方に暮れたような無防備な顔に、心の中で嘆息する。 彼の恐怖は分かっていた。 壊すこと、失うこと、離れること。それが嫌だと、それを嫌だと思うことは真理だと、『先生』に言って欲しいのだ。 恐らく自分も、彼に対して。あまりに似たような想いを持っているから、分かる。 「冷えてきましたし、そろそろ行きましょう」 結局は何も言わず、困ったように笑みながらフェイに手を差し伸べる。 その手を眺めながら、フェイもひどく緩慢に手を伸ばした。 そして空を振り仰ぎ、独り言のように言う。 「例えば俺がラハンに運ばれたときや、ラハンを出ることになったとき。それ以外でも。先生がいなくて…助けてくれなくて俺が死んだなら、それは運命だったのかもな」 蒼天に筆で刷けたような薄い雲を物憂げに見つめるフェイに、シタンが言葉を零す。 「…それは約束です」 きょとんと目を丸くしたフェイに、シタンが笑った。 「……誰の?」 「私の」 「誰との?」 「…さあ?」 彼に出会ったのは運命。 彼との別れが来るとしたらそれは運命。 けれどそれ以外は、せめて。 それは彼への答えになるのだろうか。自分への説得だろうか。 そんなことを考えながらも微笑むシタンに、フェイは涙を堪えるように俯いて、小さく笑った。 終 11/11/25 良い二号さんの日なんです。だからフェイ話?そんなのひどい!(自主的) *閉じる* |