続けるし重ねるし呼び続けるよ
 それがどんなに短い時間でも、
 いつかは途切れることを約束された声だとしても













            Unchained Melody












 もうすっかりその中にいる日々が当たり前になってしまった、白い病室。
 そんな普段と何も変わらないはずの日に、突然の来訪者。
 名前を呼ぶことも会いたいと願うことも出来ず、それでもいつか自分に会いに来てくれるだろうと、だからいつかは会えると、信じるでもなく分かっていた。
 けれどそれがいつかは分からないし、それまで生きていられるかだって分からなかった。
 だからこそ彼女の来訪は、また再びこの目で彼女の姿を映し、この耳で彼女の声を聞けることは。 嬉しいなんて一言で括れるものではなかった。
 そして再会して碌な言葉を交わす前に、たちまち部屋中を包み込んだピアノの音色。
 自分の音楽を取り戻したと言った歩の、星の降るように幸せを伝う演奏。 穏やかに耳を傾けていた彼女は、幸せそうに微笑った。
 万感なんて言葉ではとても表し切れない。
 かつて神の存在とも言われた兄に全てを奪われた彼が、長い戦いの末に全てを取り戻した証が正しく今の彼の『希望を繋ぎ続ける』という姿であり、このピアノの音色だろうから。
 そしてそれこそが、かつて『結崎ひよの』として力を振るい続けてきた自分の、ずっと見たかったものだから。

 しかしその幸せは、当然であるかのように切なさや哀しみと表裏一体、同時に存在するのもので。
 言葉に出来ないほどの暖かい気持ちが胸を満たせば、同じように今度は鈍い痛みが胸を締め付ける。
 現実を忘れて歓びだけを感じることを、許さないと言うかのように。




「ね、鳴海さん。 自分の人生が一冊の本だとしたら、あなたの物語は何話構成で、そして今…何ページ目ですか?」
 ベッドの横の椅子に腰掛け、彼女が穏やかに尋ねた。
 それはかつて、学校の新聞部室に彼女が歩と二人でいたときや、帰り路を共にしていたときと同じような空気を思い出させた。
 いつも彼女が振ってくる話題は唐突なもので、何の脈絡もないテーマかと思えば物事・あるいは人間の感情の核心を突くようなものであったり、統一性はあまりない。
 だからそれこそが彼女がどういった人間なのかをよく分からなくさせる要因だった。
 そしてまた今回も、『いつもの』ペースで話し始めた彼女の目は、見覚えのある光を湛えていた。
 歩はそのことに、胸に陽光のような暖かさが広がるのを感じる。 同時に、鈍く締め付けるような痛みを。 彼女が彼に感じるものと同じように。
「…さぁ、どうだろうな」
 そう言ってゆっくりと横に首を振る。
 自分の人生が一冊の本だとしたら。
 今、彼女はどんな思いでその言葉を紡いだのだろう。 その顔は嬉しそうでも寂しそうでも悲しそうでもない。
 ただひたすら真摯に歩を見据える瞳。 今在る彼の姿を刻みつけようとするかのような。
(今まで、どれだけの人間をこんな風に真剣に受け止めて、受け入れてきたんだろう)
 そう、これまで自分にしてくれたように、どれだけの人間を。 そしてこれから、どれだけの人間を。 そんなことをぼんやりと考えながら、歩はそう言うあんたはどうなんだと問うた。
 彼女はそう尋ねられるのを待っていました、と言うように目をきらきらと輝かせて身を乗り出す。
「私はですねぇ…やっぱり企業秘密ですので、何話構成だとか、今がその第何章かとかは答えられないんですけどね」
 そう言ってくすくすと笑いながら、両手の指を胸の前に立て、一本ずつゆっくりと折って行く。
 そして何本目かで指を折るのをとめて、緩やかに弧を描いていた唇をきゅっと結んだ。
「…私の物語のどの辺りで、鳴海さんと出逢ったかはお答えできませんが、……あなたが登場してからはずっと…その本にはあなたの名前は在り続けてるんですよ」
 これからもずっと。 真剣な顔でそう言って幸せそうに笑い、そしてはじめて眉を寄せた。
「………」
 歩は無言で視線を下に向ける。 膝を覆う白いシーツが無機質に波打っている。
 その中で感覚の鈍くなりつつある手を、膝の上でぎゅっと握り締めた。
 俯いたままの歩を見つめ、そして視線をベッドを挟んだ向かいの壁にある窓の外に向け、彼女が目を細めた。
「…でも、鳴海さんの本の中に『私』の名前がないというのは…」
 やっぱり少し、寂しいですね。 微笑みを浮かべながら、ぽつりと付け加える。
「…あんた、」
 視線を下から彼女に移し、何か言おうと口を開いた歩を遮るように、彼女が「でも」と言葉を続けた。
「…でも、『結崎ひよの』の本の中には、最初から最後まで、鳴海さんの名前が溢れてるんですよね」
「……」
 そう、『結崎ひよの』は歩のために生まれた。
 だから結崎ひよのの人生を一冊の本にすれば、当然のように歩の名前で溢れているはずだ。
 ふつう、人はたった一人の人間のためだけには生きられない。
 大切なものは他にもあるし、他の人間との関わりだって決して断てない。
 現に『結崎ひよの』としてではない、彼女自身の本には、歩以外の名前も当然あれば彼の全く関わらない時期の話や出来事だって溢れているのだ。
 そう、それこそ『結崎ひよの』の名前ですら。 忘れられない存在として、彼女の中に在り続けるのだから。

 彼女の視線の先を目で追えば、窓枠で縁取られた空が広がっている。
 筆で刷けられたような薄い雲が浮かぶ、透き通るような青空。
 毎日何度も見ている光景でも、胸に浮かべている想い一つでこんなにも印象が変わるのか。
 寂しげに微笑っている彼女に、「…あんたさ、」歩が嘆息混じりに口を開いた。
「…名前に拘り過ぎじゃないか?」
「え?」
「俺はあんたの…本当の名前ってやつも知らないし、でも前の名前だって呼んだことないぞ」
「……まぁ、そうですけど」
「でも、俺の本はあんたがいなければとっくの昔に綴ることだって放棄してゴミに出してたと思うよ」
「…―――」
「今の自分を作りあげたのが何か自分で知ってれば、客観的に示すためだけの証なんて必要ないだろ」
「…鳴海さん」
 呆然と歩の顔を眺める彼女に、歩が肩を竦めて苦笑した。
 お互いがどれだけ、お互いの存在に影響しているかなんて、そんなのとっくに知っている。
 そのことを言葉で確認する必要なんて感じないし、またそれは同じようにお互いがそう思っているだろうと、信じるでもなくただ当然のようにそう思っていた。
 だから自分の本に、彼女の名前がないなどと彼女に言われて、更に寂しげな顔をされるなど思ってもみなかった。
 それは外形上間違っていなかったとしても、自分からしてみれば全くの心外で。
 腹が立つというわけではなく、ただ少し寂しいと思った。 だから苦笑した。 そんな歩に釣られるように彼女も困ったように笑う。
 しばらく言葉なしに向き合っていたが、彼女がやがて腕時計を見やり、目を見開くと「もうこんな時間なんですね」そう言って椅子を引いて立ち上がった。
 見上げる歩に笑いかけ、眉を寄せて名残を惜しむようにぽつりと言う。
「すぐにまた発たないといけないので…もう行きます」
「そうか」
「…寂しいですか?」
「そうだな…」
「ふふ。 …でも、私だって寂しいですよ」
「…知ってるよ」
「……」
「……」
「それじゃあ、お元気で」
「ああ」
 短い言葉で挨拶を交わし、彼女がドアへとゆっくり歩いて行くのを見送る。
 言いたいことなら、たくさんあるのだろう。 言いたいことというよりは、伝えたいことが。
 でもそれは決して言葉で伝えられるものではないし、その必要もないように思う。
 もし言葉の欠片でも口にすれば、また会える理由になり得るかもしれないけれど。
 哀しみと絶望の中で生きると自分自身の意志で決めた歩には、そんなことはとても言えないと、彼も彼女も知っている。
 だからまた今度、などと言えるわけがない。 また会いに来いとも、勿論会いに行くとなんてとても。
 お互いが会いたいと知っていても、その言葉だけは言えない。 寂しいとはこういうことを言うのだと思う。


 ドアノブに手を掛け、数秒静止した後、彼女がゆっくりと振り返って言う。
「…あの頃は、うじうじマイナス思考でいじけ虫で、すぐ足を止めちゃう鳴海さんを…支えて背中を押すのが『結崎ひよの』である私の毎日で、使命だと思ってたんですけどね」
「………」
「今はこんなにも、私の方が…あなたの存在に励まされてます」
 いつも見ていたような、花のような笑顔。 「…そうか」小さくそう言って歩が苦笑する。
「あんたも人を喜ばせるばかりじゃなくて、ちゃんと自分の幸せも考えろよ」
 歩の言葉が意外だったのか、彼女は一瞬目を丸くした。 そしてすぐに笑みを浮かべて大きく頷く。
「はい! だからこそここにいるんですよ。 だから…また来ますね」
「それは俺のためか?」
「いえ、私自身のためです」
「…そうか、それなら…また来てくれって言えるな」
「鳴海さん…」
 小さく微笑む歩に、彼女も嬉しそうに笑った。

 初めて交わす約束。 それはどちらかと言えば願いに近い、期待なんてとても出来ないような儚いもので。
 難しくて守れるかどうかも分からないし、いつ一方的に片方がいなくなってしまうかも分からない。
 けれどそれを交わすことにより、また一つの絆というもので結ばれるのなら。
 今までずっと交わしたかった相手と、交わしたかった約束を。

『また会いましょう』




 閉まったドアで世界が隔たれた気がする。
 分けられた空間、白い壁に囲まれた彼の部屋にも、窓から暖かい光は確かに射しているのに。
 それは勿論、足を踏み出す彼女の前に広がる世界にも。

 それぞれの物語の、ページがまためくられる。
 ベッドに座り窓の外を眺める歩の、本の残ったページ数は誰にも分からない。
 彼女がこれから綴って行く物語に浮かび上がる『誰か』の名前も。
 ただ分かるのは、ページを開く度に新たな光で世界が包まれるということ。 これまでの二人いた間の時間がそうであったように。
 今度いつ会えるか、それは誰にも分からないけれど。
 同じ場所にいる、それだけで世界の色が変わることを知っているなら、そしてお互いがそう思っていると解っているなら。
 それは確かに幸せなことで。

 二つになった世界で響くのはそんな、確かに幸せなはずの二人の、音のない泣き声。













   終











09/09/02

ひよ天でアンソロジーにお誘いいただき、寄稿させていただいたSS。
アンソロが流れてしまったのか、発行されなかったようなので…
良いかな?と思いアップさせていただきました><
なので実際書いたのは4月。
かーなり久々の鳴ひよでとても難産だったんですが、最終話の二人への愛を詰め込ませていただきましたー!



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