あんたは俺にとって、











          聖域なる場所












 夜中にふと思い立った番号にダイヤルする。
 受話口を耳にあてると、こもった呼び出し音がプルル…と頭の中に響く。

 非常識な時間だ。
 ピーンと耳鳴りさえするくらいの静寂。
 こんな時間に電話を掛けたって、一体誰がとってくれるというのか。

 でも俺は知っていた。
 モノゴトに確信を持ってるなんてこと、滅多に無いのに。
 それでも分かっていた。

 すぐにこの小さい機械から、鈴の音みたいな声が飛び出してくるのを。



『鳴海さん?』



 四回目の呼び出し音が途切れ、寝惚け声に切り変わる。

「………」
『鳴海さん…? どうしたんですか?』
 何も言わずにいると、段々と向こうの声がはっきりと意識を持ってくる。


「…俺は、」
『?』
「俺は、明日 決闘がある・から」

『……はぁ?』

 途切れ途切れにこの喉を伝って出た言葉に、向こうが素っ頓狂な声を出す。
 本当に「はぁ?」という顔をしているんだろう。
 なんだかおかしくなった。

『決闘…ですか?』
「…あぁ」

『何の…ですか?』
「…俺の」


 夜の闇の中、ひっそりと交わされる会話で、
 まったく的を得ない俺の言葉。それなのに、


『………そうですか』

 くすりと、向こうが微笑った気配がする。


『がんばって、くださいね』
「…なんで、あんたに電話したと思う」

 向こうの声援を、質問で遮る。
 疑問形にもなってない、全く不躾なことだ。我ながら。
 でも、譲れなかったんだ。


『…さぁ…どうしてですか?』
 きっと穏やかに笑ってるんだろう。
 こいつは時々、小さい子どもを諭すみたいな話し方をする。


「………」
『鳴海、さん?』

「……声、」

『……こえ?』





「…声が、聞きたかった」





『……………』


 はじめて、向こうが沈黙した。
 でも、俺はこれが言いたかっただけで電話したから。


 あんたの声が聞きたかったんじゃない。
 あんたの声が聞きたかったと、伝えたかったんだ。


 だからそれが云えて、満足だったから。
 その沈黙は心地が良いものだった。


『…私の、声が聞きたかったんですか?』

「あぁ」


 いつも。
 いつもだけど。


『それは…嬉しいですねぇ』

 ありがとうございます、と続けて、電話口でふふっと笑う。
 照れてるときの笑い方だ。




「……元気出た」
『…え?』
「ありがとう」
『…………えぇ』



 俺が突然何の前触れも無く礼を言うとき、
 こいつは理由を尋ねたりしない。

 俺にはその言葉、その気持ちだけが全てで、
 それには何の理由も作用も必要としてないことを、知ってるからだ。



 泣きたいくらい聞きたかった声。
 それを聞くと、泣きたくなった。

 それを伝えたら、きっと向こうは笑うんだろう。
 そんな事実でさえ、俺は泣きたくなってしまうんだろう。




「悪かったな、夜中に」
『いえ、構いませんよ。 嬉しかったですから』
「…おやすみ」
『おやすみなさい』


 電話を切ると、また静寂が降りてきた。
 別に嫌いな空気じゃない。
 でもあいつの声とか、空気がある空間に比べると、
 なんとも淋しすぎるもので。



 すっかり闇に慣れた目で部屋の中を見渡すと、
 ベッドの淵に立ててあるカレンダーが目に入った。
 もう日付が変わって今日のところに、『手術』の文字。

 ふと、きーんと耳鳴りが襲ってきた。
 その音を掻き分けて あの声 を捜す。
 記憶の中の声より、記憶の中の姿より。

 実際に声が聞きたい。
 本当は会いたいんだ。





「………寝るか、明日に備えて」







 毛布を被って、ベッドの中でうずくまる。

 少しずつ、ゆっくりと
 鈴の音を手繰り寄せながら目を閉じると、自然に口元が笑みをつくった。

 泣きたい気持ちを我慢することが、前ほど辛くなくなったのは
 たぶん、泣きたくなる理由も 泣いた作用も 幸せに帰すからか。


 この思いだけで、生きて行ける気がした。












 俺は自分があまり要らなかった。

 そんな俺が、自分が必要になったのは


 いつまでも生きたい、いつまでも居たいと
 そう思うようになったのは

 あんたはどうしてだと思う?











   終








06/03/24


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