「ったく、今回はどこまで機嫌を損ねたんだか…」

 放課後の学園を、浅月がぼやきながらノロノロと歩く。

 少々単純寄りの亮子をいつものようにからかって遊んだのが昨日のこと。
 あちらもまぁ飽きることなくいつものように 怒って浅月を殴り付け走り去り、
 今日まで一度も顔を合わせていない。

 廊下の窓に目をやると、グラウンドでは部活生が活気付き始めている。
 部活熱心な亮子も授業が終わってすぐに部活に行ったのだろう。

 様子を見に行こうか(あわよくばまたからかってやろうと)、浅月が玄関に向かった。
 すると、向こう側からひよのがせかせかと歩いてきた。
「お、嬢ちゃん」
「浅月さん…っ」

 ひよのは浅月の姿を認めると、早足で向かってくる。
 何やら普段と様子が違い、少し切羽詰った感じだ。
 その様子に浅月は首を傾げながらも、

「なぁ嬢ちゃん、亮子の奴見なかったか?」

 からかい過ぎて怒らせちまったよ、と笑いながら尋ねる。
 しかしひよのは真剣な表情のまま、少し間を置いて言った。


「…浅月さん、亮子さんが……」




「…え?」













                            忘却の













 一時的な記憶喪失。




 普段通り部活を始めた亮子だが、
 連日の雨によって作られたぬかるみに足をとられ、転倒して頭を強く打ったとのことだった。

 脳震盪でそのまま気を失い、保健室に運ばれて。

 10数分後、目を覚ませばこうなっていたらしい。



「なんだよ…それ」

「こーすけ君……」

 呆然と佇む浅月に、理緒が心配そうに声を掛ける。



 保健医に状況を告げられるよりも先に、
 ベッドで上半身だけを起こしてぼんやりしている亮子に「誰?」と訊かれたのがまずダメージだった。



「完全に記憶喪失というわけではなくて… 少し混乱しているだけだろう」


 亮子は自分の名前や学校など、身辺のことは理解しており、また理緒やひよののことも覚えていた。
 保健医の言う通り、一時的に記憶が混乱状態になっているだけのようではあるのだが。



「なぁ…理緒」
 亮子が気まずそうに、目線の少し先にいる浅月を示して理緒に目配せする。
「亮子ちゃん……この人…こーすけ君はね……」

「………………」


 理緒が言葉に詰まっていると、亮子は

「あたしの、友達、なんだよ…ね?」

 思い出せなくて申し訳ない、といった表情で浅月に小さく笑い掛けた。

「……」
「こーすけ君、」
「浅月さん?」
 理緒とひよのが順に声を掛けてくる。


「……あぁ、そーだよ」



 久々に泣きそうな気分を味わっているな、

 そう感じながら意識は遠くなりそうだった。
















 頭を打っていることもあり、精密検査のために亮子は病院に行くことになった。
 病院へは理緒が付き添い、行かないと言い張る浅月には、ひよのが付き添うことになって。


「あ、理緒さん。どうですか、亮子さんのご様子は?」

『うん、まぁ思っていたより酷くないみたい。
 色んなものを見たり考えたりしていく内に思い出していけるみたいです』

「そうですか、良かったです…
 無理をしないよう、がんばりすぎないよう伝えてくださいね」
『了解です。…こーすけ君のこともよろしくお願いします』
「はい、任せといてください☆」

 ひとまず亮子の容態が安心して大丈夫だろうことを知り、
 ひよのも明るく言い放ち、電話を切ろうとすると、理緒が言葉を続けた。

『あ、…ねぇ、ひよのさん』
「え、はい?」

 慌てて受話口を耳に当てる。
 理緒は暫くためらうように押し黙った後、ぽつりと呟いた。




『…悩みや辛みの種だった 大好きな人を忘れちゃうって…どんな気持ちかな…』

 そして、
 忘れられてしまう気持ちも。



「……………」


 ひよのは答えられず、理緒もまた返答は求めていなかったようで、
 「ごめんなさい」と明るく言い、別れを告げて電話を切った。




「……さて…と! じゃあ私も行きますか」
 電話をしまうと、ひよのはどこかで落ち込んでいるだろう浅月を探しに歩き出した。









「あ、やっぱりここでした」
 屋上のドアを開けると、予想していた通り浅月が手すりにもたれて立っている。
「…」
 ひよのがトコトコと歩み寄っても、何も言わずに一瞥しただけだった。

「割とすぐに戻りそうですよ、亮子さん」
「……………」

「亮子さんと会ってたくさんお話すれば、すぐに思い出してもらえますよきっと!」
「………」
 励ますように明るく言い聞かせるひよのを見ながらも、浅月は押し黙ったままで。
 ひよのは少しぷうと頬を膨らませて、

「亮子さんが私すら覚えていたのに、自分だけ忘れられちゃったから拗ねてるんですか?」

「…そんなんじゃねぇよ……」

 ひよのの言葉に浅月は苦笑し、

 手すりを握る手に少し力を込めて、努めたように淡々と言った。


「なぁ…嬢ちゃん、俺を最低な奴と思うか?」

「…どうしてですか?」



「俺は……あいつが記憶失くして…
 失くしてっても生活に支障ない程度だし

 ただ少しのこととか……俺のことを忘れてさ。
 それ知って、俺は、………」



 口ごもりながら、途切れ途切れに言葉を発する。
 そして最後の言葉は、






「………凄く、…安心したんだ………」






 悲しく 掠れていた。











 いつも思っていた。
 報われない想いを抱き、傷つき続ける彼女が哀れで不憫だと。
 不幸だと思った。

 それが自分にとって重くなかったわけではない。
 嬉しくなかったわけではない。

 だが、彼女にとっては?

 失くした方が、忘れた方が楽になれる。
 今までの傷も癒え、つくはずだった傷もなくなる。




「俺のこととか…あいつの心ん中の俺の場所とか…
 忘れちまった方が良いって、良かったって…思ったんだよ」

「…………」




『…悩みや辛みの種だった 大好きな人を忘れちゃうって…どんな気持ちかな…』


 ひよのの耳に、理緒の言葉が響いた。




「俺はダメな奴だからよ、
 でも あいつには幸せになってほしいんだよ」

 


「…浅月さん、あなたは辛くないんですか?」
「そんなこときくなよ」
 悲しそうに言うひよのに、浅月が苦笑する。

「いいよ。傷とか痛みとか、どうでもいいんだ」

「それは…浅月さんのものは…亮子さんがくれたものですからね。
 そりゃ、浅月さんは良いと思いますよ?」

「…嬢ちゃん?」


 ひよのが静かに笑って言ったのを、浅月が首を傾げた。



「浅月さん、私が以前した問いかけ、覚えてますか?」
「は? 何を唐突に…」

「あれですよ、『自分と恋人がいて、死ぬのは先がいいですか・後がいいですか』って」

「あぁ…あれか……。なんて言ったっけかな」

「私は覚えてますよ」

 ひよのがとても幸せそうに言ったので、浅月はなんとも言えない顔をした。
 相変わらず、いつも突然、突飛なことを言い出す。






『浅月さんに質問でーす!恋人と自分がいて、死ぬのは先がいいですか、後がいいですか??』
『まぁた嬢ちゃんの微妙な質問か…』
『微妙とはなんですか! で、どっちですか?』
『俺は後がいい』
『へ?』
『なんだよ、驚いた顔して。…まぁ、嬢ちゃんは先がいいだろ?』
『えぇ、もちろん…だって、寂しいじゃないですか』
『そうなんだよな、好きな奴が死ぬの見送って、独りになるって寂しいんだよな』
『ならどうして』
『あいつを寂しがらせるなんて、俺にできるかよ』




 あの日も、今のように学園の屋上で、風が気持ちよく吹いていた。





「私は浅月さんが最低な奴なんて絶対に思いませんよ」
「??」

「私は亮子さんが何をどう感じてるのか、確証なんて持って言うことはできませんけど…
 あなたを想うことが辛かったら、傷がついて痛むなら、忘れてしまって それが幸せなんては思いません」

「………」




 傷くらいないと。
 痛みくらい与えてもらわないと。
 …そしてたまには 笑い合わないと。

 繋がるものが ないでしょう?




「私なら、自分のためにそこまで傷ついてくれる人のことを
 心の中から絶対になくしたくありません」






「嬢ちゃん…
 あいつは嬢ちゃんとは違う。 だから…
 嬢ちゃんがあいつの気持ちを代弁することなんて、できないんだぜ?」

「当たり前ですよ。 どう感じたかは浅月さんの勝手です。
 で、どう思ってるんですか?」

 呆然とした表情の浅月に、ひよのが微笑みながら 試すように覗き込んでくる。


『どう思ってるんですか?』








 そりゃあ「俺なしで笑うな」なんて言えない。
 むしろ自分がいなくても笑えるくらい 幸せの要件に俺が必要ないくらい
 それでもいいけど。


 でも、

 やっぱり。



 傷も。 痛みも。
 今までの時間も。
 







 ……忘れてしまわないで。



















「…あ、…」
「浅月香介ってんだ。 ちゃんと覚えとけよ」

 念のため一日入院となったことを聞き、その病院に来た。
 そのことを教えてくれた理緒はちょうど買い物か何かに出ているようでいない。

 ドアを開けて入ってきた浅月の顔を見ると、亮子が少しとまどったように頭を下げた。
「だー、んな他人行儀な間柄じゃないんだよ俺達。
 ま、その内思い出すだろうけどな」
 にかっと笑って明るく言う浅月に、亮子はほっとしたように、つられて笑った。


「わかったよ。 浅月…香介、ね」


 忘れない。



 そうぽつりと続けられて。
「………」
 何かが心の中にこみ上げてきた。





 ホントだよ。

 忘れんなよ。
 早く思い出せよ。
 そして もう

 二度と忘れるなよ。






「ふぃー、急に雨降っちゃうんだもんビックリしたよ!
 今テラスで電話してきたんだけど、病院のお金ひよのさんがどうにかしとくって!」
「…相変わらずだな…」

「ずっと雨続きで、やっと晴れたと思ったのに〜。 また雨だよ…」

 理緒がうんざりしたように言うと、浅月と亮子も窓から外を見やる。

 気づかなかったが、ちょうど今しとしとと雨が落ち始めたようだ。


 しばらく三人でそれを眺め、雨音を聞いていたが、ふいに亮子が口を開いた。



「もっと強くなりそうだね…。 香介、自転車気をつけろよ」



「………え?」
「亮子ちゃん?」

 その言葉に、浅月と理緒が目を丸くする。

「……あれ?」

 当の亮子も、なぜそんなことを口走ったのか分からず戸惑っているようだ。



「ま、よくなったらまた乗せてやるよ」
「……良かったね、こーすけ君」






 届かなくても。
 永遠に達することはなかったとしても。







 想いが再び繋がるまで、あと少し。












   終








記憶喪失ネタですよ……ベッタベタだよ…(笑
でも一度は書いてみたかったネタなんです。
重い素材ではあるんですがあったかいものにしたいなぁと。
忘れたいけど忘れたくない、ってそのまま真理だと思うんだよね。
忘れるのと覚えてるの、どっちが幸せなのかは一概には言えません。
でも、自分のことこんなに想ってくれる人がいるっていうのは、覚えてたいよねー。
これはぜひ香亮でやりたい!と思っていたので、実現して嬉しいです(*´∇`*)

3周年企画でいただいたお題は「忘却の楽園」(螺旋もの)でしたー。
書いててとても楽しかったです、ありがとうございました!!

BGM『blind summer fish』BY:坂本真綾


05/06/24


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