確実に何かが違っているはずなのに
 離れることも交わることもないのはなぜ?

 その意味をもう少し、深く考えていれば良かったのかも。












          似てない僕ら












 『息ができない』
 考えられるのはそれだけだった。
 苦しい。

 氾濫する川。
 濁流。
 呑まれる。
 流れる。
 流される。
 溺れる。
 今溺れた。
 息ができない。

 真っ黒く粘る、気持ちの悪い水の中。
 苦しさで喉を掻き毟り、叫ぼうとしたとき。


「…さん、カノンさんってば」


 声が、空を薙ぐこの手を掴んだ。





 ばち、と目が開いた。
 瞬間、飛び込んできた「現実」の景色。
 意識より先に、視界に入ってくる情報をなぞる。

 眩しい蛍光灯。
 風にたなびくカーテン。
 窓の外の、グラウンドの喧騒。
 真上の音楽室からの吹奏楽部の演奏。
 ワックスのとれかけた床。

 そして 硬い皮のソファに横たわる自分。

「……っ、」
 がばと起き上がると、そこにいた少女が驚いて飛び退いた。
「か、カノンさん起きました?」
「……あれ?」

 二、三度瞬きをする。
 ぼんやりする意識を頭を強く振って払うと、視界が生温くぐらりと混ざった。
 その様子を見て、ひよのがゆっくりとソファに歩み寄って来る。
 まだ夢現のカノンと視線を合わすように屈み、心配そうに覗き込んだ。

「大丈夫ですか?」
「……?」
「カノンさん、うなされてましたよ。 それにすごい汗…」
 ひよのに言われて、自分がぐっしょりと冷や汗をかいていることに気付く。
 そしてまた、ちゃんと息をしていることを認識した。

 夢だった。 溺れてはいない。

 深呼吸してから、手の甲で汗を拭う。
 それを見て、ひよのが「タオル持ってきますね」と言い、ぱたぱたと駆けて行った。

「びっくりしましたよ、部長会から帰ってきてみればカノンさんが寝てるんですから。
 …どうしてこんな所で寝てたんですか? 今日は授業は午前中だけだったのに」
 流しでタオルを水に漬けながら、ひよのが穏やかに言う。
「家は暑いし…ここだったらクーラー効いてるから…」
「そういう利用法ですか…まったく」

 嘆息しながら、濡れタオルを静かにカノンの額に押し当てた。
 冷たくて気持ちが良い。
 額、頬、首とひんやりした感触が伝うのを、されるがままにしながら目を閉じる。

「…って、ちょっと何ですかこの首!」
「え?」
 カノンの首にタオルをあてようとして、ひよのが声を上げる。
 寝ている間に喉を掻き毟っていたらしい。 夢でそうしていたのと同じように。
 爪で傷つけてしまったようで、計八本の引っかき傷が痛々しく血を滲ませていた。
「一体どんな寝相なんですか…」
「夢を見たんだよ」
「夢?」
 恐々と首の傷をタオルで拭くひよのに、他人事のようにカノンが呟く。

「怖い夢を見たんですか?」
「怖い…か。 そうかもしれない」
「どんな夢を見たんですか?」
「溺れる夢だよ。 真っ黒い波に呑まれて、その濁流に流されて 溺れて息ができない夢」
「…」
「僕はその波に乗ることもできないし、波を止めることもできないし、気持ちよく流されることもできない」

 呼吸を奪い、希望を飲み込む強い波は、
 弱者を容赦なく流すのに その涙は流し去ってはくれない。
 痛覚を残し 無力さゆえの絶望を与え そうやって全てを奪っていく。

 それが「流れ」というものだ。 …彼にとって。

「…それは、怖い夢でしたね」

 静かにそう言って、カノンの喉元の痛々しく赤く腫れた傷を指でなぞる。
 そして「私もよく、怖い夢をみます」ぽつぽつと、地面に落ちる雨のようにやさしく呟いた。

「色んな顔をした、色んな表情をした、色んな格好をした私がたくさん居て。
 それぞれみんな違う名前で、違う目的を持っていて
 私はその多くの名前と声に埋もれ、本当の自分が何なのか分からなくなる…そんな夢です」
「………?」
「…ふふ、そんなの 他の人からしたら全然怖いことでも何でもないのかもしれないですね」
「―――…」
「でもカノンさんは、あなたは こんなに傷がつくくらい 掻き毟るくらい…
 そして戻ってきた世界には、あなたの求めた酸素で溢れていますか…?」
「…ひよのさん?」

 遠い目で、独り言のように零していたひよのは、そこでカノンの顔を見やると満面の笑みを浮かべた。
 普段の彼女がいつも、当たり前のように浮かべている明朗な笑顔。

「冗談ですよ。とにかく怖い夢なんて見ないでくださいよ」
「依頼形?」
「そうです!夢の中までは助けに行けないんですからね」

 さも当然のように言い放ち、ウィンクして見せる。

「現実の世界なら助けに来てくれるの?」
「私の力の及ぶ限り」
「キミの世界は誰が助ける?」
「助けて欲しいほどのピンチになんてなりませんよ、私は」

 朗らかに笑えば、全ての音が真実の言葉になる。

「ひよのさんは優しいんだね」
「…事実その通りですが、そんなコトを言われたのは初めてですね」
「うん。 キミは弱くて…そして僕より遙かに 剛いね」
「どうしたんですかカノンさん?」
「別に。思ったことを言ってみただけ」

 自分より幾ら強かろうと、彼女はきっと「弱い」。
 正確には、弱くもある。
 自分と同じように、喉を掻き毟りながら助けを求め、必死に生を願うこともあるだろうに。

 それでも彼女の世界を助ける・そうはっきり言えない。
 言えないことに、きっと理由も言えないのだろうけど。

「今日はいつもに増して変な人ですね〜カノンさん」
「……ああ」

 不思議そうに首を傾げるひよのに視線を向けるも、
 既にカノンの瞳に映るのは、彼女の背後の青い空で。

「…そうかもしれない」

 生返事をしながら、彼女の言葉を咀嚼する。
 そして痺れる喉に、そっと手を伸ばした。



 触れられた傷が、今になってこんなにも熱い。










   終








はい、3周年企画でいただいたお題は「似てない僕ら」(螺旋文)でした〜!
これは寄せられたお題を見た瞬間から、カノひよでいこう!と決めてました。
性格だとか運命だとか生き方だとか、色んなものが似てるだとか似てないだとか、
そういうのを語ってる話にしようかな〜・でもそういうのっていかにもタイトルまんまでつまんねぇな・
とか、そういう葛藤を繰り返して、結局この形で落ち着きました。
やっぱカノひよって楽し〜い!^^
素敵なお題ありがとうございました〜!


06/05/22


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