理由なんか忘れた。










          バスタオル











「お前は大きな、とてつもなく巨大な流れの中にいるんだ」


 彼は時々、抽象的でしかない、途方もない言葉を口にした。
 僕にどんな反応を求めているのかはおろか、その言葉の意味すらもよくわからない。
 その度に、僕はただ首を傾げる。
「ふぅん…」
 あまり興味が持てなかった。
 『巨大な流れの中にいる』そう言われているにも関わらず、自分には関係のない話のような気がして。

「今は分からないかも知れないけど。いつか、明日か、何年後か。その流れの中で、お前は大きな役割を果たすことになる」

 瞳を透かして、その奥の奥に潜む心を突き抜けて、どこにあるかも分からない、点のような存在の未来を見つめるように。
 僕の頭を撫でながら、清隆は瞳を合わせ、微笑んだ。


 僕にはあまり興味が持てなかったのは確かだけど、ただ、その『流れ』というものが川のようなものだとしたら。
 自分がその中で大きな役割を果たすときが来るのなら。
 そのとき僕は、その川の中を泳いでいるのだろうか。
 それとも、


 溺れているのだろうか。


 溺れているのなら そのまま沈んでしまうのだろうか。
 泳いでいるのなら、その冷たさを、突き刺さる痛みや苦しみをものともせずに、自由に泳げているのだろうか。


 残酷な言葉ばかり何度も食らった気がする。



「何のために生きるんだろう」
 返事になっているかは分からないけれど、決まってその言葉で返した。
 返しても。
「……………」
 優しい笑顔は、決まって何の言葉も返してはくれなかった。


 その沈黙は何を意味していたんだろう。
 『生きている意味など自分で感じとるものだ』
 ということだろうか。

 もしかするとあの目は、あの閉ざされた唇は
 『お前の生にさしたる意味はない。ただ存在するだけの価値があるだけだ』

 その絶望を伝えていたのではないだろうか。




















 今までで何十人目になるのかは数えてもいないからわからないけれど。
 その日二人目のハンターの胸を撃ち抜いた後、とてつもなく気分が悪くなった。

 言葉を発することもなく崩れ落ちたその肢体を見下ろした瞬間、視界がぐるりと回転して。
 ざー、と雨が地面をしきりに叩きつけるような音が耳の奥で響いた。
 返り血すら浴びていない体が、頭からつま先まで余すことなく、血や泥に塗れているような錯覚がして。
 逃げるようにその場から離れ、『家』に帰った。


「う……っ」
 嘔吐感を紛らすように、水道の蛇口を大きく捻って水を出す。
 すべて流して欲しかったはずなのにその出てきた水すらも紅く見えて、ますます胸が悪くなった。

「どうした? カノン」
 不意に聞こえた声に振り向く。聞き慣れた声。
 高くもなく、さして低くもなく、ただ耳に馴染まない声。

「気分が……わるく、て」

 不調のためか(たぶんそれだけではないけれど)掠れた涙声が漏れた。
 得体の知れない感情に戸惑う、縋るような声に彼は静かに微笑って口を開く。

「人を殺したんだ。とても気持ち良くはいられないさ」

 そう言った。



 頭の中を何か激しい光が一瞬瞬いて、考えるより先に言葉が口から飛び出した。

「――清隆だって人殺しじゃないか…っ」





 なぜそうされたのかは分からない。
 泣いていた僕の視界はほとんど涙に塗れていたから、その顔は見えなかった。
 言葉を発した一瞬後、ぱんと乾いた音が耳の中に響く。頬がひりひりと焼けるような感覚が来たことで、殴られたんだと分かる。

「―――――っ………」

 吐き気は治まっていた。
 ただ頭の中を白い光が飛び交い、何も考えられなくなって家を飛び出した。
 何も聞こえない。
 もしかすると、呼び止めようと名を呼ぶ声を背中にかけられていたかもしれないけれど。
 何も聞きたくなかった僕には、何も聞こえなかった。
 きっと何かを聞きたい僕であっても、何も聞こえては来なかっただろうけれど。






 何のために生きるんだろう。
 何のために生きているんだろう。
 何よりも大事だと言われているはずの、誰かの命を奪ってまで。
 そうまでして生きる理由は何だろう。
 どんな意味があるんだろう。
 分かっている。
 意味はくれなかった。
 教えてはくれなかった。

 きっとそれは静かなる否定だった。

 生きている価値はある、きっとそう言われただけ。


 いつしか大きな流れの中に溺れることで、その流れの向きを神のような絶対的な誰かに示すことで沈んで行く。




 それだけの価値があるだけだ。








 頬が濡れていた。
 なぜ泣いているのかは分からない。
 雨が降っていた。
 だから泣いてはいなかったかもしれない。
 けれど僕は泣いていた。
 だってこの痛みだ。

 いつもはさして気にもしなかった、大きくも小さくもない川に掛かる黒い橋。
 雨が降っていることで少し流れが強くなっているそれに、倒れ込むように飛び込んだ。
 水が無数の手足のように身体に絡みついてきて、それでも苦しくはなかった。

 ただそこで僕の望んだ通り、意識は途切れた。
 途切れたのに。


 この目は望んだ通りか否か、また開いた。





 意識が光を取り戻すと、はじめて雨の音がした。
 家の中に、玄関にいたのだけれど、それでも激しく雨に打たれているようだった。
 横では腕を掴んでいる清隆が、ずぶ濡れのまま立っていた。
 頭から足まですっかり濡れていて、前髪が目に掛かって表情はよく見えない。
 僕も彼も息は切れていて激しく肩で呼吸をしていて、それでも自分では落ち着いているつもりではあった。
 けれど口を開いた僕が自分で何を口走ったのかはよく聞こえなかったから、やはり多少錯乱はしていたのかもしれない。



「意味もくれないのになぜ生かすんだ」

 と言いたかったことは確かだったのだけど。






 彼から意味が欲しかったわけじゃない。
 縋る存在が彼だっただけだ。









 けれどその腕にはとても縋ることはできないのを、空を掴む自分の手に思い知らされる。
 彼が投げたタオルが頭に被さった。
「…………………っ」
 目を閉じて、息を吸って吐いて、思い切り泣き喚こうとしたけれど。

 喉から漏れたのは掠れた声だけだった。








   終








04/11/05
16/01/18


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