迷っていたのはいつだって単純なことで

 そしてそれが凄く簡単なことだって 気付くころには



 もう事態は取戻しがつかないくらい
 複雑にこんがらがってしまってるんだ


 …いつだって













                         空に沈む














 一度、名前を間違えて呼んでしまったことがあった。











 何の特別もない、いつものように始まったいつも通りの朝。

 いつもは起こしに来られてはじめて起きるのに、
 その日は 閉め忘れた窓から差し込んできた光が眩しくて、自分から目を覚ました。


 カーテンが風を受けて、ゆらゆらたなびいていて
 その隙間からは風と共に柔らかな光が差し込んでいて
 とてもきれいで

 見ていた夢を忘れてしまったほど きれいな朝で



 だからとてもぼんやりしていた。



 だからやってはいけないことをしてしまった。






 放心状態のまま部屋を出て リビングに入ったとき、台所から声が掛かった。





「おはよう」




 名前を呼ばれたり
 あるいはもう少し長い言葉だったら
 声を認識できるくらいの言葉を発してくれていたら

 間違わなかったと思うのだけど













「…おはよう、  カノン」

















 一瞬の、沈黙が流れて
 はじめて自分が何を口走ったかが分かった。



「―――――…」



「…あ……」




 怒るかと思った。
 相手が口を開いた瞬間、何を言われるかと身を竦めたけれど






「おいおいラザフォード、 何間違えてくれちゃってんのよ。
 俺は浅月香介ですよー」






 笑いを混ぜてそう言うと、
 浅月は何事もなかったように料理を再開した。


 一瞬のことだったけれど、
 アイズは取り残されたように立ち竦んで。






「……………」





 自分の思考を思い返してみる。




 怒られると思った。




 …どうして?



 なぜ名前を呼び間違えて、怒られると思った?










 浅月が、カノンと間違われて、どうして彼が怒ると思った?












 彼がここに、 自分と共にいる理由。
 それが彼の口から話されたことはない。


 けれど




 自分は何か   大きな勘違いをしているのではないか。











 怒ると思った理由、それはたぶん とても単純で。

 自分がとても強く深く想っていたカノンに間違えるということは
 浅月が自分を特別に想っているのならば 傷つくようなことだと思ったから。


 なぜ浅月が自分を特別に想っていると考えたのか。
 なんとも思っていないのならば、仲間であり同志とはいえ 他人のためにここまでしないのではないか。
 それは客観的にみて分かる。


 けれど。


 彼の口から 何か言われたわけではないわけで






 だから





 自分は、もしかすると 大きな勘違いを しているのではないか。









 浅月にとって自分はただの仲間で同志で、
 それ以上でもそれ以下でもなくて、

 前からずっと こうして世話を焼いてくれたのも
 浅月が優しいからで、
 あるいはただの気まぐれで、








 そう、ちゃんと言われたわけじゃない

 カノンのように




 想いを伝えられたわけでもない
 保証なんか何もない。 






 自分がこうして一人で生活できるようになった今



 彼がいつ離れてしまっても不思議はないことなのだ。
















 そう考えると、背中をとてつもなく冷たい空気が抜けたような気がした。




「…………」












 自分は、アサヅキにとって 特別な人間じゃない。



 だったら、彼は?

 自分にとって、特別か?














 そんな考えがうるさいほど、アイズの頭の中を駆け巡る。
 その思考を遮ったのは、台所から顔を出した、浅月の明るい声。







「どうしたんだよ、そんなとこ突っ立って。 メシできたぞ〜」

「……あ、ああ」


















 何ともない。

 自分の言葉に傷ついた様子も、気分を害された様子も、

 何ともない。







(……ただ、呼び間違っただけだ)



(…重ねたわけなんかじゃ、……)










 自分の方が傷ついてしまっているということに 気付くはずもなく。

 ただわけも分からず痛む胸を、ごまかすように頷いた。

























 空気みたいな存在だった。


 いて当たり前、なんて言ったら失礼かもしれないけれど。

 確かに当たり前のようにいた。




 何の約束もなかったのに
 いつの間にかいて、


 何の保証もないのに
 いつもそばにいる。





 いつまでもそばにいる、


 そんな確信はないけれど







 とりあえずそばにいる毎日は過ぎていった。














 当たり前のように変わらず
 穏やかに笑っていて、

 確かにこの心は安らいだ。













 空に雲が浮かんでいるのと同じくらい、
 当たり前だと思っていた。

 もしかしたら 思うこともないくらい

 当たり前だと思っていた。





 だから、理由なんて


 そばにいる理由なんて、
 訊こうとも思わなかった。






 けれどもしかすると、



 恐怖していたのかもしれない。
 浅月が発する答えの、何かを。






 だから自分の心の中で当たり前だと決め付けて、耳を塞いでいる のかも。









 そう、いつの間にか……















「んで? 何つってたんだ、清隆の野郎は?」

 大して長くもない電話を切った後、待ち構えていたように浅月が寄ってきた。

「ナルミアユムのことについてだ」

 無表情に抑揚のない声でアイズが答えると、浅月は面白くもなさそうに嘆息する。
「んだよ、またそれか……ったく頼りになんねぇな」

「?あいつが何を言うと思ったんだ?」



「いや、説得中のカノンについて  さ」


「…………」




「いつになったら戻ってくんのかなー、  ってよ」



 お前の元にさ。







 いつものように微笑みながら、ぽつりとそう言った。
 とても優しい声で。



「……………」



「ん?どうした?」





 急に黙り込んだアイズの顔を、浅月は不思議そうに覗き込む。










「お前は…」

「ん?」









「お前は、カノンが戻ってきたら……どうするんだ」



「はぁ? 訊くまでもないだろ」



「どうするんだと訊いている」





 いつになく真剣で、
 どこか切羽詰ったようなアイズの様子に、浅月が訝しげに首を傾げる。






「??…まぁ、結論から言うとここから出てくさ」

「……!」


「んでまぁ清隆の指示に従って…弟の奴の様子を見ることになるんだろうけどな」


「離れるのか?」

「は?」


「ここから……」



 俺から、



「…離れるのか……?」










 意図せずも、切実に響いた声。

 浅月が困惑したように眉を寄せた。




「何言ってんだ? …あぁ、別に一人にしねぇよ。
 だからカノンが戻ってきたらってお前が例えたんじゃねーか…」


「違う」



 アイズを安心させようとするかのように、
 明るく笑って言う浅月を、 アイズが短く遮った。

「は?」



「違う……」





 浅月は益々わけがわからない、といった顔でアイズを伺うが、
 アイズはそのまま俯いて黙ってしまった。










「…………」







 違う。


 カノンが戻るか戻らないかじゃなくて。






 お前が、俺が、


 これから  どうなっていくのかで。












「…胸が痛いんだ」









 頭の中が言葉で渦を巻く。

 胸は何かに掻き毟られるようで。





 平穏だった空が 嵐に塗れたように



















 そう、 空は当たり前のように頭上にあったけれど


 いつの間にか






 這い上がることもできないくらい
 底まで 沈み切ってしまって









 いつの間にか



 溺れてしまって










 いつの間にか


 息もできないくらいに







 ただただ  お前が



























「……………好きなんだ」

























「………」



 俯いたまま、消え入るような声で言ったアイズの言葉は、確かに聞こえたけれど。

 浅月は驚いた風もなく、ただ無言で空を見つめたままで。






 そしてゆっくりと口を開いて発した言葉は、

 相変わらず 穏やかで、諭すような声。











「……勘違いだよ」












「…………え…?」








 浅月の口から出てきた言葉の意味を、
 呑み込んだのか 呑み込めなかったのか、アイズの声が掠れる。





「…お前がカノンに俺を重ねてんの、知ってたよ。
 だけど俺はカノンじゃねぇし、それもお前は知ってるんだよな。
 だから意味分からなくなって混乱してるだけだ。

 だから ……大丈夫だよ」








「…………」





 何が、何がどう 大丈夫というのだろう。

 だから? 大丈夫?


 その言葉こそ意味が分からない。








 重ねていた?

 彼を? 彼と?



 あぁ、確かに、


 確かに   そうなのかもしれないけれど。


 確かに   そうだったのかもしれないけれど。











 同じ言葉。

 同じ仕草。

 同じ色の目。



 空気のような

 同じ 存在。










 重ねていた

 彼を、 彼と。




 あぁ、確かに、



 確かに   そうなのかもしれない。


 確かに   そうだった。
















 浅月は優しい顔で


「困惑させて、ごめんな」


 とだけ言うと、席を立って そのまま玄関へ歩いて行った。









「……………」









 バタン、とドアの閉まる音。








「……………」










 あぁ、確かに


 あのときの自分は、 カノンを 求めていた。





 隙間が埋まったりなんかしないと

 傷が癒えたりなんかしないと





 思っていたのに










 いつの間にか………










(結局 お前としての言葉を 何も聞いていない)










 いつだって、彼は「誰か」の代わりだった。

 「誰か」なんて、  知れたこと。









(俺が、あいつを カノンと重ねたから)



(俺は、あいつという人間を 否定したことになって)
















(だから、 俺はまた 失うのか)


















 傷つけた?

 けれど浅月がこちらを特別には何とも想っていなかったのなら

 傷ついたのは 恐らく自分だけ。


(彼の気持ちとしての言葉は、まだ聞いていないけれど)






 そう、確かに傷ついた。

















(俺はいつの間にか、…)













 失うと大きな穴が空いてしまうほど
 心に傷がついてしまうほど

 大きな存在を

 いつの間にかまた  手にしていたことに。





















 今更、









 浅月香介









 お前として












 アサヅキ コウスケ として、…








 好きになってしまった。







(本当なんだ)



 心の中で呟いても、遅いけれど。











TO BE CONTINUED...



「愛の、あいのゆびから」
「黒」








ぐは、とうとうまとめきれずに5話編成を決意しました(笑
前回は浅月の内面で、今回はアイズサイドで。
ちょっとアイズがわがままってか自己中?って受け取られてしまうかも…(汗)
今回すっごい難しかったです(>_<)シリアスが書けなくなってきているのか…(笑
…まぁ一番微妙なのは浅月なんですけどね(笑←笑うな
とりあえず次でラストー!!さぁどんな展開になるかは明日の私の気分です(いや冗談ですが)

いただいたお題は「空に沈む」でした〜。
凄い好きな響きで、シリアスなものに使いたい!と思ってたのです。 お題ありがとうございました〜v


05/07/22


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