心地良いを 煩いと思った瞬間に
 崩れ落ちるのは向こうと見せかけてこちらの方













             転調兆す












 眠りたいのに眠れない。 外は蒸し暑くてもエアコンの効いた涼しい夜、ひよのは何度目かの寝返りを打った。 意識を手放すことに逆に集中し過ぎてかえって意識は冴えていく。
 意識は冴えようとも、頭は寝不足のためにぼんやりとしている。 身体を横たえるだけで休息にはなるが、意識を手放して夢の世界に沈み込むあの透明な無感覚は時の許す限り味わっていたい。 あの目を閉じて意識を失い次に目が開くまでの間、人は精神の活動という面では死んだことと同じはずなのに。 睡眠と言う現実から離れる作業とそれとでは望み方が全然違う。
 そんなことを考えながら、また我に返る。 また脳内を言葉が埋め尽くしている。 全て手放して眠りたいのに。 そしてまた寝返りを打つ。
 横たわって実際どれくらいの時間が流れたのか。 寝ようとして横たわってからそれでも尚眠れないのなら、その時間が何とも無駄なものに感じてしまう。ゆえに、途方も無く長い時間をそうしているような気がする。
 首を持ち上げ、すっかり暗闇に慣れている目を少し凝らすと、枕元の目覚まし時計の針が深夜2時を回った所だった。
「…もう1時間も経ってる…」
 呆れ半分に嘆息。 そして意を決して布団を跳ね除け、起き上がる。
 いざ起きようとすると猛烈に身体が倦怠感を訴えて来たが、無視して足を床に着けると、その冷たさに一気に目が覚めた。
 そしてゆっくりと歩き、頭に浮かんだ人間の居る部屋に向かう。

「カーノンさん、起きてます?」
 部屋のドアをノックしたかと思うと返事も待たずに開ける。5回目くらいまでは部屋の主はプライバシーの侵害がどうとか非難したが、6回目くらいからは何も言わなくなった。
 そして今回は事実上、暗闇に包まれた部屋の中でベッドに横たわり、彼はこちらに背を向けたまま動かない。
 その無反応の背中に不満げに眉を寄せると、ひよのはずかずかと部屋の中に進み入り、カノンが寝ているベッドの淵にぼすんと盛大に腰掛けた。
「カノンさん、起きてくださいよ」
 どちらかというと神経質なカノンが、部屋のドアをノックされ、そして声を掛けられても起きないということはあまり考えられない。 だからこそ、よほど疲れているのだろうということはひよのにもよく解っていた。 それでも。
「カーノンさーんー」
「んん…」
 布団からはみ出た肩を掴んで無遠慮に揺さぶると、カノンがゆっくりと目を開いた。
「…ひよのさん…?」
「起こしちゃいました?」
 あまりに白々し過ぎるその言葉に本当は鼻で笑いたい所だが、寝起きばなで顔に力が入らず思いの外優しい笑みになってしまう。
 だが既に夢の中を漂っていたのを理不尽に起こされたのではたまらない。カノンは寝惚け半分に再び布団を被り直そうとしたが、ひよのが声で遮る。
「カノンさん起きてくださいよ、お喋りしましょう」
「……僕は眠いんだけど」
 実際今、ほんの数秒前まで寝ていたんだけど。キミが起こさなきゃそのまま眠ってたんだけど。 言いたいことは多々あっても、彼は必要最小限に抑える癖を持っている。
 そんなカノンにもお構いなしに、ひよのは更に彼の肩を揺すりながら笑う。
「私なんてもう三日寝てないですよ」
「よく平気だね」
「カノンさんもいけると思いますよ」
「いけないよ、眠い」
 いつもながらわけのわからないひよのの主張。普段ならば真面目に相手をしてやれるが、寝惚けた頭ではそれも出来ない。少し苛立ちのこもった声が微かに怒気を孕んだ。
 しかし「せっかくカノンさんなら相手してくださると思ったのに。 私を残して寝ちゃうんですか?」などとのたまうひよののしょんぼりした言葉に、演技だと分かっていてもカノンが律儀に返事をする。
「同時に、一緒に寝たって夢の中には連れて行けないけどね」
「あなたが眠ってる間に私が変わっちゃったらどうするんですか」
「はぁ?」
「ほら言うでしょ、女心と秋の空」
「今真夏の熱帯夜なんだけど」
「まぁただの喩えですが。 ホントに私が変わっちゃったらどうするんですか」
「どうもしないよ」
「本当に?」
「どうもしないよ」
 同じ調子で、同じ言葉を繰り返す。 ひよのは不満げに頬を膨らませた。
「まぁ実際、私はどんどん変わって行ってますけどね」
「うん。そして僕も」
「カノンさんも?」
「そうだよ。キミが変化して僕を置いて行くのと同じように、僕も変化してキミを置いて行く」
「……………」
「…いや、置いて行く・なんて言えるのはひよのさんだけかな。 僕は「置いてかれてる」って感じ?」
 くつくつと眉を寄せて困ったように笑う。 眠気は完全に覚めて、ひよののお喋りに付き合う気になったようだ。
「どうして置いてかれてる・なんて思うんですか」
「さぁ、どうしてかな」
 言いながら真っ直ぐにひよのの瞳を見据える。
 闇に慣れたひよのの瞳が、陽の下では碧のカノンの瞳が揺れるのを捉えた。
「さみしいから、ですか」
「さぁ、そうかもしれない」
 目を閉じて小さく首を振ると、カノンは口元に笑みを浮かべる。
「置いて行くのも置いて行かれるのも、どちらもさみしいのは同じでしょう」
「そうだね。手を繋いで一緒に行ければ良いのにね」
「行けないんですか」
「さぁ、…行けないんだろ」
 だから、さみしいんだろ。
 反対の証明。
 肝心なのは、一人で居て感じる孤独でなく、二人で居て感じる疎外感。
 それに気付いてしまえば、繋いだ両手など虚しいだけ。


「ねぇカノンさん、私は…私はあなたが変わってしまうことが怖いです」
 シーツからはみ出したカノンの手を、ひよのの手がきゅっと握った。
「?」
「置いてかれてる・って、感じるかもしれません」
 どこかを見ているようでどこも見ていない、そんなぼんやりとした視線を部屋の片隅に向けながら、ひよのが静かに呟く。
 少し考えてからカノンはもそもそと身体を動かし、上半身を起こしてベッドのヘッドボードに凭れた。
「――さみしいの?」
「さみしい、とは違うかも」
「じゃあ、どういうことかな」
 探るような視線で、けれどあくまでも優しく、カノンが首を傾げる。
「……しい、」
「え?」
「羨ましい、のかもしれません。 或いは」
 声がこれまでになく、くっきりと響いた。

 変われることが。自分の意思で、自由に変われることが。
 或いは自分の意思とは無関係に変化していく、その許された奔放さが。

「私は羨ましいんですね」

「キミが?僕を?」
 ひよのの言葉に、カノンがはははと声をあげて笑った。
「変ですか?」
「変だよ」
「どうしてですか」
「だってキミは……」
 言いかけて言葉を止める。 そして「…そっか」きょとんとしたひよのを見つめ、
「キミは変わったんだ」
「……私が、変わった?」
「前までなら考えられなかったよ、そんな殊勝な台詞」
「それならあなたが変わったのかもしれないじゃないですか」
「…そうだね、キミに対する僕の考え方が変わったのかもしれない」
「………」
「………」
 重い沈黙が流れる。瞬き数回、数秒、数十秒、数分。
 そして段々と瞼が重くなり始めるのを感じならが、カノンが時計に目をやり、そして先ほどから全く動こうとしないひよのを見やる。
「もう4時前なんだけど。ひよのさん、いい加減寝なよ。本当に3日寝てないなら余計に」
「眠くないんですよ」
「僕は眠いんだよ」
「良いですよ、私なんか放っておいて寝ちゃっても」
 どうせ話し掛けて起こそうとするくせに。そんな言葉をカノンが飲み込んだ。
「そこに居られると気が散るじゃないか」
 本当は眠気はピークに達しているのだから、ひよのがそこに居座っていても、多少ちょっかいを出して来たとしても眠れる自信はあったし、実際に眠ってしまいたい。
 しかしそうしてしまうにはあまりに気が引けるほど、ひよのが迷子の子どものような顔をしているのだ。
 一体どうしたというのだろう。 本当に、彼女は変わった。

「じゃあ、一緒に寝る? 眠れなくてもそこに居て、僕が眠ってる間に変わらないかどうか見張っていると良い」
 冗談混じりにカノンが言うと、ひよのはゆっくりと頷いた。
「そうします」
「見張ってたからと言って、僕が変わるのを止められるとは思わないけど」
「私もそうは思いませんけど」

『一緒に居たい』
 カノンも、ひよのも。
 そう言ったことが無いのはどうしてだろうか。
 その気持ちだけで動き、その気持ちだけで動きを止めていることだけは確かなのに。

 やれやれと笑いながら、カノンが布団のシーツを綺麗に均し始める。
 しかしひよのが縁に座ってほぼ半分を占領している所為で上手く出来ない。
 カノンの動きにも反応しようとしないひよのを非難はせず、カノンが優しく言った。
「…泣きそうな顔してるよ。慰めてあげようか?」
「………えぇ、お願いします」
 目を合わそうともせずに放たれたひよのの返答に、カノンが目を見開く。 先ほどから全く予想外の返事ばかり返って来る。
 けれどまぁ、許容範囲外ではない。
「何をすれば良いかな?」
「変わらないって、約束してください」
「……やっぱりキミは変わったよ」

 そんな、早ければ数秒で自ら撤回しなければならなくなるような、馬鹿な約束。

「バカな約束だって、思ったでしょう」
「いや、そんなことは」
「でもそんな約束だって、しないではいられないんですよ」
「どうして?」
「だって、………分かりません」
「じゃあ僕とも約束ね」
「何ですか?」
「僕が眠っている間に、変わらないこと」
「……カノンさんも、変わりましたねぇ」
 困ったように眉を寄せて、あははとひよのが笑った。そんなバカな約束。そう言って。

「どんな約束だって、せずにはいられないよ」
「どうしてですか?」
 同じように述べるカノンに、ひよのが問い返す。答えなど返って来ないと思っている口調で。

 けれどカノンが口を開いて、「だって、こんなにもキミが…」 ひよのの頬に手を伸ばしたので、身を屈めてその口元に耳を寄せ、答えを聞くことになる。

「             」

 小さく呟いて頬に手を伸ばせば、今夜初めて幸福そうに、ひよのが笑った。笑って、泣いた。

















   終











超久し振りのカノひよ。間があくとラブ度が高くなる傾向にあります(笑)

10/06/08


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