(3)

 本当のことなんか確かめたって、立野夏子には泣きたくなるような現実があるだけだってことは誰にも解っていた。立野本人にも解っていただろう。それでも真実を確かめたいと思う立野夏子の気持ちは俺には全く理解出来なかった。かと言ってこの泣きたくなるだけの現実を改変する術はおろか、その現実から逃避する方法すら俺には提供出来やしない。それは俺が無力だからというよりもそういうシステムなのだと思う。それが『世界』なんて言うほど深く大きいものなのかは解らないけれど、そんな類の揺るぎない何かなのだ。
 現実は変わらない。そして逃げられない。この場合での現実を変えられるということは、それこそ人の心なんて簡単に変わるし変えられることになる。想いを通わせた恋人同士が取り合った手をすぐに放棄出来ることになる。それはとても不安定で寂しいことに思える。けれどそういうものなのだと言われれば決して否めない。
 他に好きな人間が出来てしまったり、あるいは相手を憎む感情が生まれてしまったとしても。恋人同士という枠内にいるがために体裁としては愛し合っている振りをしなければならない・という想いで手を取り合うのは何か違う気がする。
 立野夏子も、そう思ったのだろうか。初恋にして想いが適った相手が、そいつが不本意で自分と付き合っているという真実ならば不要な絆だということなのだろうか。もし相手が無理して自分と付き合っているならば、その手を離す覚悟が出来ているというのだろうか。もしその覚悟が出来ていないのならば、相手の想いが自分以外に向いていると知りつつもその繋がった手に縋って相手の顔を見ない振りをして行くのだろうか。
 道筋なら数多あるのに、なぜこうも苦しい選択ばかりが転がっているのか。俺はやはり立野夏子に同情する気は全く無いけれど、ある意味で彼女が立たされている岐路というのは誰しもに用意されているものだと思う。勿論俺にも。そういった真実を確かめたいなんて思うことが全く無い俺にはその岐路に立たされたときどんな想いを抱くのか、どんな選択が自分に出来るのか全く想像がつかない。だから一足先にその岐路に立った立野夏子の選択を、そしてその先にとても興味が湧いた。
 想いが変化したなら、それは受け入れるべきなんだろう。ただ、それは捨てる方の言い訳にするべきなのか。それとも捨てられる方か。


 帰り際に立野夏子の『依頼』を聞かされた翌日。俺は普通どおり登校して午前の授業を受けた。だが昼休みになると新聞部室へ行くか否かで少しだけ迷った。昼休みに部室に行くかどうか迷うなんて初めてのことだった。あの部室に行って鍵が掛かっているのではと思うとうんざりするほど嫌だった。我ながらどうしてそこまで、と思うのだが。やはり俺の『常』は完全に破られている。俺はもしかするともう二度と、二日前までのように何も考えていないと言っていいくらいに当然にあの部室に赴くのは出来ないような気がした。
 考えているととことんまで面倒になり、今日も屋上に行こうかと決めかけたとき。弁当の包みを持って椅子を引いた瞬間、絶妙のタイミングで新聞部長が教室にやって来た。
「鳴海さん、お迎えに上がりましたよ!」
「………」
 元気ハツラツなその声その顔。教室の何名かがぎょっとした顔でいきなり教室に入ってきた上級生を凝視した。あまりそういったことに興味が無い俺だから、最近まであいつのことを知らなかっただけで、あいつはかなりの有名人だった。良い意味でなのかは定かではないが、俺ならば不名誉だと思うような噂を何篇か周りのクラスメイトから聞いた。嫌われているとかそういうのではなく、出来るだけ関わりたくない、というのが多数意見か。
 その誰もが恐れる新聞部長と、その上級生に教室まで迎えに上がらさせる俺、を皆が順番に見比べる。一気に居心地が悪くなった。刺すような視線が煩い。俺ははあと深く嘆息一つすると、弁当の包みを引っ掴んで教室を出た。
 あいつの横を素通りしてドアをくぐって廊下に出ると、予想通りあいつは小走りで俺の横に付き、同じペースで歩き出した。
「お迎え…とか、何のつもりだよ」
「だって、鳴海さん今日も部室に来ないつもりだったでしょう?」
 当たっているのが何となく腹が立つ。こいつは勘なのか何かの根拠に基づいて他人の言動を読んでいるのかいまいちよく解らない。だが一点だけ確実に間違っていることがあった。俺はその間違いが許せないものだったので敢えてしっかりと訂正する。
「今日も、じゃなくて今日は、だ」
 俺は昼休みに限ってのことだが、昨日は新聞部室に行く気だったというか実際に行った。今日も、なんて言われる筋合いはない。
「そうでした」
 俺の言葉にこいつは感情の読めない声で短くそう言うと肩を竦めて見せた。

 部室には先客がいた。先客と言うよりは、こいつらがここにいることによってこの部長は俺を教室まで迎えに来たんだと悟る。
「やっと来た〜、部長さん!もー待ちくたびれちゃったよー」
「すみません、お待たせしました」
 部室のドアを開けた途端に飛び込んできた間延びした甲高い声。予想外の先客に俺が面食らっていると、部長はにこにこと簡易キッチンへと向かう。
「探偵さんをお迎えに行って参りました」
 茶缶の蓋を回しながら背中越しに話すあいつに、長机に立野夏子と並んで座る女子が馴れ馴れしく俺を呼んだ。
「知ってるー、鳴海歩でしょ」
「……」
「鳴海さん、こちらは昨日ちょっとお話した河田さんです。立野さんのお友達の」
 キッチンから顔だけを出してあいつが言う。相変わらず緊張気味の立野夏子の横にいる時点で想像はついていたが、予想外と言えば予想外だった。このおどおどしている立野夏子の親友にしては派手な感じがする。肩まで伸ばされたストレートな髪は二人とも同じくらいの長さだが、濡れたような漆黒の髪の立野とは正反対に、河田は金髪に赤いメッシュが入っている。服装などの規則はほとんど無いに等しいこの学園だが、ここまで派手にしているのも珍しい。隣のクラスらしいのに俺が今まで気付かなかった(認識していなかった)のが不思議なくらいだ。
 俺はとりあえず弁当を食べるためにこの部室に来たわけなので自分が座るスペースをちらと探すが、二人が長机の真ん中を陣取っているために俺もその向かいに座らなければならないような空気になっている。心中嘆息しながら俺は無言で椅子を引いて座った。丁度向かい合う形になった河田が興味津々に目を輝かせながら身を乗り出してくる。
「アタシ、隣のクラスの河田静代でっす!ヨロシクね」
「…はあ」
「アタシのこと知らない?」
「知らないな」
「えーそうなの!?アタシはアンタのこと知ってるのに〜」
 河田静代。口の中で名前を転がす。イメージに全くそぐわない。立野夏子のときと同じかそれ以上の違和感を感じながらとりあえず俺は極力その甲高くも間延びした声に苛つかないように意識を遠くへ押しやった。
「鳴海さん、お茶です」
「ああ、サンキュ」
 そんな俺に苦笑しながら部長がお茶をお盆に載せて運んで来た。俺は目も合わさずにそれを受け取ると広げた弁当の横に置く。その様子を見て河田静代が大袈裟に肩を竦めた。
「あらあらお熱いお二人さんなのかな〜?」
 俺にとって立野夏子同様、その親友と聞いている河田静代の方も第一印象は決して良くない。第一印象で人を決め付ける気は無いがその言葉にどの程度付き合うか、どの程度真剣に話を聞くかという心構えは大きく違ってくるのは仕方無い。そして通常通りならば今河田が発した言葉、俺は無視するはずだったのに。なぜかそう出来ず突っ込んでしまった。
「あんた何言ってんだ?」
 言葉が喉を通り口から飛び出す前に後悔した。普段の俺ならば完全に無視しただろう。なのに律儀に相手の目を見てまで返してしまった。それはあまりにも低レベルの稚拙な言葉だが、揶揄するだけの響きではなかったからなのかもしれない。その言葉がただ茶化すだけのものだったら無視したのだが。普段他人の言葉の響きだとかその言葉以上の意味だとか、そんなの全く意識しない俺が感じるくらいだから、こいつは感情を隠すつもりもなく発したのだろう。そう、確かに寂しそうに。
「えー、だってさ」
 俺が言葉を返したのに気を良くしてか、河田はニコリと笑って座り直し、そして無作法に頬杖をついた。
「部室に入ってからの二人。部長さんは当たり前みたいにお茶淹れに行ってアンタは当たり前みたいにここ座っておべんと広げて、お茶持ってきた部長さんの顔も見ないで当たり前みたいにお茶受け取って。熟年夫婦みたいなんだもん」
「…………」
「…そうそう、鳴海さんてばホント当たり前みたいなんですよね」
 俺の横でお盆を胸に抱き、部長が文法的におかしい日本語を呟きながらうんうんと頷く。
「うっらやましいな〜、ね、夏子」
「……う、うん、そうだね」
 急に振られて立野はびくっと肩を震わせる。だが微笑みかける河田に、はにかんだように笑いながら頷いて見せた。河田はその立野に更に笑いかけ、今度は俺に向けて眉を寄せ困ったように笑って言う。
「アタシらにはもうそれは望めないんだもん」
「…もう結論は出てるのか?」
 あーあと頭の後ろで手を組みながら嘆息する河田に尋ねる。尋ねるというよりは確認か。こいつらは真実を確かめて、そして確かめた上で何をどうするか決めようとしていたのではないのか。その依頼で今この場所にいるんじゃないのか。それにしては『もう望めない』その諦めの言葉はあまりに潔い。
「だってねーーー、自分のカレシと友達のカレシが出来ちゃってるんだよ?」
「噂なんだろ?その真偽を確かめたかったんじゃないのか」
「そーは言っても。火のない所に煙は立たないでしょ。大体立ってる噂がそもそもフツーじゃないのに、それが全く事実無根のでっち上げられた噂でした・って言われたところでこれまで通りいられるワケないじゃん」
「……」
 その間延びした語尾と年齢よりかなり幼く聞こえる甲高い声には不相応に。俺が第一印象で思っていたより遥かに、河田の話はまともに聞けた。やはり最初の印象より良く見えるというのは得なのだろう。俺は河田がまともに話が出来そうと感じたことに対していたく感心してしまう。
「最初はすんごいムカついたしー、何か復讐してやりたい!って思ったんだよね」
「噂を言いふらしたりですか?」
「うん。タダの略奪愛じゃないからねーアイツらの場合。カノジョの友達のカレシ取っちゃうくらいに大胆だったとしてもさすがに秘めときたいでしょこれは」
 ひひっと笑いながら河田は再び頬杖をついて視線を天井に向けた。その噂をあちこちに広めたときの妄想でもしているのだろうかとても愉しそうだ。
「でもま、今はそれもなーんか面倒になってきた感じ?どーでも良くなっちゃった」
 ふっと静かに笑って視線を落とした河田の心中は俺には知れない。だが少なくとも『どーでも良くなっちゃった』という顔ではないのは確かだった。
「恨んでばかりはいられないのかなー?受け入れなきゃなんないのかもね」
 鮮やかに彩られた爪に銀のビーズが張り付いていて、それを気にしながら河田がぼんやりと言った。
「それでもここにいるってことは、とりあえず真実ははっきりさせときたい、って言うのか?」
「ん〜、アタシはどっちでも良くなってんだけど、ね」
 そう言って苦笑しながら、河田がちらと立野に目配せした。河田の横で萎縮しながら座っていた立野が、河田の視線に更に肩を窄める。真っ赤になって俯くきながらも(元から顔を上げているところなどあまり見ていないが)首を横に振りはしない。
「………」
 ほう、と俺は喉の奥で嘆息した。感嘆と、面倒臭いなコイツ、の両方の意味を持つ溜め息だ。河田の言う通り、心が離れているのであれば真実がどうであろうと同じだ。でもそれでも知りたいとしているのは、立野はまだ諦められないということか。河田とは正反対で、怒りや不満を吐き出さないタイプだから燻るのだろう。
「ま、決定的な別れの言葉とかビンタの一つもなく自然に消滅しました、ってんじゃアイツらにトクさせすぎってのもあるしね。とりあえず非難できるだけの証拠欲しいってことで〜、あゆくんにお願いね」
 呼びかけの声のトーンが一際ナナメ上に上がった。一瞬自分が呼ばれたということが分からなくて固まる。
「……あゆくん……?」
 俺が一瞬固まるのと同時に、横に立っていた部長(こいつは普段なぜかあまり座らない)が代わりに問い返す。呆れているというよりはなぜか怒りを含んだ声だ。しかし部長のそんな声音など知ったことではない河田が面白そうに身を乗り出して来る。
「そっ、鳴海歩だからあゆくん!あーちゃんの方が良いかなぁ?」
「………」
「な、なんでそんな風に呼ぶ必要があるんですか!」
 依頼人と請負人でしょう、と続けたいのだろうか。だがそうでないにしてもあまり上手い切り返しじゃない。こいつが何を動揺しているのか俺には解らないが、少なくとも動揺しているこいつを見て少しだけ河田の機嫌指数が上がったのは確かに解った。
「だって〜、カレシ達のことはアタシはもうどうでも良くなってるって言ったでしょ?アタシが今興味あるのは〜あゆくんだから」
「し、静代ちゃん」
 今日初めて聞いた立野の声。何を焦っているのかは解らないが、恐らく俺の隣に立っている部長の空気に焦って親友の軽口を諌めているのだろう。俺が横からちらと見ただけで部長が凍り付いているのが解るから、正面から見据えているこいつらにはどんな表情に見えているのか俺には推し量れない。
「………」
「……話はそれだけか?」
 まぁそんな風に言われても俺には全く興味のないことだから返す言葉も特になかった。無表情の俺と、隣で目を吊り上げている部長の顔を交互に見比べると、面白そうにひひっと笑うと河田が立ち上がる。
「そ〜だよ。 さっ、話も済んだし行こっ、夏子」
「う、うん」
 急に立ち上がった友人に、慌てて立野も席を立つ。上目遣いで部長を見やり、そして俺を見てぺこりと小さく頭を下げた。
「それじゃああゆくん、今度ゆっくり遊ぼーね」
 普通ここでは依頼についてよろしくじゃあないのか。『今度ゆっくり遊ぼーね』が依頼であったとしてもそれに応える気は俺にはないから特に何も返さなかった。しかしそれも特に気にする様子もなく、上機嫌な河田がドアを開けて廊下に踏み出し、その後ろから小走りで立野も出て行った。

「……」
「…なぁ、今回の依頼っても、あいつらからちゃんと依頼料とか貰うんだよな?」
 浮気調査だとか身辺調査だとかっていうのはこの部長の専売特許だ。俺が出来ることと言えばせいぜい手伝いくらいで。それを手伝っても良いとしているのは、その依頼料がこいつに渡るという前提からだ。普段使っている新聞部室に、さすがに毎日出されているお茶代分くらいは働いても良いのだろうと、今現在の俺がそんな気分だっただけ。こいつへの手間賃…と解釈できるかどうかはよく解らない。こいつにとって普段部室を開けたり俺をもてなすのが手間かどうかというのが俺に量りかねているからだ。都合の良い解釈は別として。
「えぇ、入りますよ」
 にっこりと言い放つこいつの額にくっきりと青筋が浮かんでいるのが解る。顔は笑っているが声が全然笑っていない。器用なことが出来るもんだと改めて感心する。俺はいつもこいつのバカらしい部分にばかり感心している気がする。それも、良い意味で。
「これはもう、たんまりふんだくってやらないといけませんね〜」
「ふんだくるって…そういう自覚があるのか」
「いえいえ今のはコトバのアヤです。それにしても意外でしたよ。鳴海さんがあんなにアッサリ依頼にOKするなんて」
「いや、だからそれは…」
「やっぱりあんな風に可愛い子に好意をぶつけられたら悪い気はしませんよね〜いくら鳴海さんでも!」
「いくら鳴海さんでも・の意味は解らんがとりあえずあんた何か勘違いしてるぞ」
 依頼、断って欲しかったのだろうか。そもそも『可愛い子』とは河田静代のことか?ならこいつの辞書に載ってる『可愛い』と俺の辞書に載ってるそれには大きな溝がある。
 笑ってはいるが明らかに機嫌は一変している。俺がそういうのに疎いとかそういうのは関係なしにしてもしなくても解る。現にそれを解っているからあの河田静代はこいつをからかってすらいたのだろうし、立野夏子は慌てて友達の軽口を止めさせたのだろう、あんなに人前で声を出すのが苦手のようなのに。…あぁ、人前でというよりはあの場合は俺の前で、か。
「大体…あんた何を急に…」
 俺が問い掛けようと口を開いた瞬間、授業開始のチャイムが鳴り響いた。昼休みであることなどすっかり忘れていたため、突然現実に引き戻されて不覚にもびくっとするほど驚いてしまった。ここでこいつが『別に何でもないですよー』とかそういうことを言えば、俺はその言葉の通り何も気にしなかっただろう。すぐに何も気にしないというのが出来なくても結構な早さで忘れることが出来ただろうのに。こいつはそうは言わなかった。
「ほら鳴海さん、早く教室に戻らないと」
 ただそうとだけ言って俺に退室を促す。
「……」
 煮え切らない思いだが、俺はひとまず何も言わずに空になった弁当の包み(河田の耳に障る間延びした声を聞き流しながら黙々と食べていた)を掴んで席を立った。
 ドアをくぐり、閉める直前、ちらと部室の中を覗くが、向こう側を向いていて部長がどんな顔をしているのか解らなかった。そもそもなぜ自分がこの場であいつがどんな顔をしているのか気になったのかすら解らない。
 まだまだ俺は面倒から当分解放されそうもない。俺の『常』を取り戻すのがいつになるかはどこまでも不確定だ。












   続





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07/12/24


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