残さない
 置いてはいかない
 でも引き止めてくれるなら












   blue blue summer












「ふぅ…あっついですね〜」
 授業後、部室に向かう途中。 廊下を歩きながら、燦燦と窓を突き抜けて来る日差しにひよのが目を細めた。
 教室は冷房が付いているとはいえ、絶えず開け閉めされるドア、そして限られた室内面積に40余名という生徒が押し込められている人口密度、そして窓にべったりと張り付いて温めるような日光のせいでそこまで涼しいとは思えない。
 教室ならまだしも、体育の授業などは更に最悪だった。 40度近い気温、卵を落とせばジュージューと焼けそうなコンクリート、プールの水だって温水に成り果てているようなこの時期にグラウンドでボールを追い回すなど、正気の沙汰ではない。 実際に今日は生徒が3人も日射病で倒れて保健室に運ばれたという情報が渡った。
 グラウンドでは部活生達が歓声を上げながらその所業をやってのけているのだろう。 全く正気の沙汰ではない。 想像しただけで体感温度が上がる。 ひよのは手を団扇に扇ぎながら、部室への歩みを速めた。 あの城ならば思う存分冷房を効かせられる。
「……」
 この眩しさも、制服の白さも、空の青さも、汗ばむ体も、涼しい場所を求めて早くなる足取りも。
 全てが夏だと謳っている。 うんざりするような要素盛り沢山のこの季節が、どこかキラキラした感慨をきっと誰もが感じている。 高校生活という限られた時間の中で、友達や仲間と共に夏休みだとか、期末試験だとか、そんなことで一喜一憂してそして笑えるのはこの時期の醍醐味だろう。
「………」

(私にも、そんな時期があったでしょうか)

 階段を一段一段上りながら、心の中で呟いてみる。
 結崎ひよのが夏の到来に、青い空だとか燃える太陽だとか来る夏休みだとか、そんなことでウキウキとはしゃぐような娘なのか。
 そんなことをふと考えて、無性に可笑しくなる。

(夏が来るのは、楽しみでしたか?)
(こんなに暑い夏の最中、どんな心境ですか?)
(夏の終わりには、物悲しさを、寂しさを、感じるものですか?)

 どの自分への問い掛けなのか判らない、それもまた可笑しくなる。
 階段を上りながら一人笑んでいる新聞部長に、通り過ぎる生徒が顔に疑問符と多少の恐怖心を浮かべて早足で追い抜いて行った。 きっと夏の暑さのためだと判断されるのだろう。


(私は、)

(夏が)

(すきでしょうか?)





 部室の扉を開けて、中に入る。 窓も締め切っていたために篭った熱気に一気に襲われ、ひよのは顔を歪めた。
「うぅ…冷房冷房…!」
 リモコンの電源をオンにし、設定温度を16度にする。 風速は強。 電気代の請求はどうせ他所へ行く、という安心感ならではの暴挙。
 ゴー、と音を立ててエアコンの羽が動き出した。 ふっと息を吐きながら、エアコンの動き始め特有の埃っぽい匂いに、今度の休みにフィルターの掃除をしなければ、と考える。
 冷蔵庫から昨日で作っておいた麦茶を取り出し、氷と共にグラスに注ぐ。 一杯目を流しで一気に飲み干し、二杯目を注いでデスクに置いた。
 緩やかに冷えていく温度。 強風、低温の冷房で外から、冷たい麦茶で胃から、段々と涼しさが心地良く馴染んでくる。
「…この心地良さも夏ならではなんですねー」
 独りごちながら一口、また一口と麦茶を流し込む。
 そしてふっと思い立ち、携帯電話を取り出してある番号に発信する。
「…………」
 一回、二回、三回。
 多忙なのだろう、なかなか取らない。 しかしひよのも全く切る様子を見せず、ただ無言でひたすら呼び出し音を聞き続ける。
 六回、七回、八回。
 そろそろ留守電センターに繋がりそうだ・と思った瞬間、相手が電話に出た。
『――はい?』
「すみません、私ですが」
『何だ、どうした?』
 互いに名前を呼び合うことも無い。
 ひよのは鳴海清隆と対峙するとき、彼をどう呼べば良いか分からないし、分かる気もしなかった。
 彼が自分を どの、名前で 呼ぶかを考えると吐き気がしたから。 彼の持つ固有名詞も口にする気がしなかった。


「結崎ひよのは、夏が好きですか?」
『―――は?』
「だから、」
 電話向こうの素頓狂な声に、嘆息混じりに質問を繰り返す。

 結崎ひよのは、夏が好きですか?

『それ如何で何かに影響が?』
「影響の有無によって、何かに影響が?」
『…おいおい。 珍しく連絡してきたと思ったら…言葉遊びのために電話してきたのか?』
「だから、結崎ひよのが夏が好きなのか、私が知りたいんです」
 言っていて少しだけ泣きたくなった。

 どうして、結崎ひよのが夏が好きか。そんなことをこの男に訊いているのか。
 どうしてその問いに、私は答えを出すことが出来ないのか。

『まぁ、結崎ひよのは春が好きそうだな』
「夏は…――」
『考えておくよ。今取り込み中だからまた後で掛けるよ』
 すまんな、と一言謝って、清隆が電話を切った。 ツーツーと無機質な音が耳から身体中に響く。


「……ふぅ」
 そもそもどうして「結崎ひよのが夏が好きか、否か」の答えをムキになって欲しがっているのか知れない。
 清隆の言う通り、それによって一体どんな影響が及ぶというのか。
 考えていると面倒になってきた。 今や完全に冷え切って寒いほどの室内。
 窓を締め切り、遮音カーテンを引けば、室内に響くのは己の息遣いと、エアコンの機械音と、下の階から小さく響いてくるブラスバンドの練習曲だけ。
 静けさと冷気が支配した部屋。
 特にやることも無く、ひよのは再度深く嘆息すると、机に突っ伏する。
 目を閉じれば、驚くほどすんなりと意識が遠のいて行った。







 照りつける太陽の下、日傘を差して歩くこと。
 熱気の篭る教室で、手で顔を仰ぎながら授業を受けること。
 寄り道してカキ氷を食べること。
 知らなかった。
 知っていたはずなのに。
 今、「夏」を体感しているのは、結崎ひよので。
 きっと私ではない。


 私は、遅れてしまった。






「…………ん、」
 目が覚めると、机の向かい側に鳴海歩が座っていた。
「…鳴海さん?」
 ゆっくりと身体を起こすと、雑誌から視線だけを寄越して歩が嘆息する。
「あんた冬眠でもしたかったのか?入った途端凍えるほど寒かったぞ」
「そういえば…」
 冷房を最低温度に設定したまま眠ってしまったことに気がつく。 手元のリモコンを見やれば、26度の微風になっていた。
「…今、何時ですか?」
「7時ちょっと前、かな」
「えぇっ!?もうこんな時間なんですか!?私2時間近く寝てたんですか!」
「ああ」
「起こせば良かったのに…」
 ぶつぶつ言いながら、寝ている間に乱れたお下げを撫で付ける。
 ひよのが眠っているとき、歩が起こすことをしないのはひよのも分かっていた。 そして眠っているひよのをそのままに帰ってしまうことがないことも。
「鳴海さん、夕食の準備は大丈夫ですか…って、」
 言いながら窓の外に目をやって言葉を止めた。 カーテンを引いているが、それでもはっきり分かるほど外はまだ日が高く、明るい。
「7時前って、嘘じゃないですか!」
「なんで」
「だってこんなに明るい…」
 言いながら腕時計を見て、再び言葉を止める。腕時計の針は確かに6時50分を指していて。
「…えーと」
「もう夏だからな」
 ひよのが途中で止めた言葉に、歩が答えた。相変わらず興味も無さそうな口ぶりで、目線は雑誌に落とされてはいるがきちんと言葉を返してくる。
「………夏ですか…」
「?夏が嫌いなのか」
「どうしてですか?」
「好きそうだから」
「好きそうですか?」
「ああ」
「どうしてですか?」
「………」
 ぼんやりと端的に聞き返してくるひよのに、歩は少し煩そうに眉をひそめたが、小首を傾げて考える素振りを見せた。
「うるさくて能天気なやつは夏が好きってイメージがあるから・かな」
「鳴海さん、私にそんなイメージ持ってるんですね…」
 はぁと大きく嘆息しながらひよのが項垂れる。

「私は夏が好きなんですかねぇ……」
「なんだそれは」
「…夏は、なんだか悔しいような寂しいような気持ちになるんですよ」
「へぇ」
「…それって興味を示してるんですか?」
「別に」
 興味が無いわけではないことは分かる。 しかし先ほどから相変わらず、足を組んで雑誌をめくりながら(ちゃっかりと自分用の麦茶も淹れてある)、ひよのが言葉を発するときのほんの時々だけ、ちらちらと視線を寄越すだけ。
 もっとも、歩が何かに対し、もっと言えば自分に対し興味津々に身を乗り出してくる姿など想像できないのだが。

「……今だってそうなんですよねぇ」
「……」
「こんな時間なのに、太陽はこんなに高くて空も明るくて…なんかうっかり取り残されてるような気持ちになりません?」
「???」
「綺麗に青い空とか、向日葵とか。甲子園とか夏休みとか海とか、夏は「正に夏!」みたいなものが多過ぎて、夏が終わるとそれら全てが置き土産みたいな気分になりません?」
「…………」
 歩の顔には、『さっぱり分からん』という言葉がべったりと張り付いている。 眉間に皺を寄せて、「まぁ、暑いから仕方無いよ」と励まさんばかりのその顔からして、自分は大層理解不能で素っ頓狂なことを言っているのだろう。
 夏の暑さの所為、と言われれば、確かにそうなのかもしれない。
 けれど言いたいことは要は一つだけ。
「私がですね、取り残されてるような気持ちになるんですよ」

 誰もが知っている夏の香りを。
 夏の始まりというわくわくした高揚感を、夏の終わりという物悲しい寂寥感を、知らない。
 結崎ひよのなら知っているのだろうか。 否、自分はそれを結崎ひよので知ってしまった。
 だから、取り残されたような、悔しい気持ちに。


「あんたが何で取り残されたような気になるのかは分からんが…」
 やがて長い沈黙を破り、歩が無表情に口を開いた。
「俺の目からはそうは見えてないよ」
「…………」
「結局夏が好きなんだろう?」
「どうしてですか」
「好きじゃなきゃそこまで考えないだろ」
「…鳴海さんって…時々核心を突きますよね……」
 感嘆の声なのか呆れた声なのか分からない声で唸りながら、ひよのがうーんと腕を組む。
 そんな様子を見て歩も困ったように笑った。 そして再び口を開いて放つ言葉は、
「俺は夏が嫌いだな」
「え?どうしてですか?」
「暑いから」
「……もしかして冬も嫌いですか?」
「ああ。寒いから」
「……………」







 すっかり日も落ちた帰り道。 歩と別れ、一人閑散とした街を歩く途中、清隆から電話が掛かってきた。
「はい」
『ああ、さっきの話だけど。 結崎ひよのが―――』
「私は、」
 咄嗟に清隆の言葉の言葉を遮り、続ける。

「私は、夏が好きです」

『……………そうか』
 電話の向こうで清隆が笑うのが分かる。 それが嘲笑なのかどうかは判断できない。
 ひよのも可笑しそうに笑いながら、それじゃあと言って電話を切った。




 私、が誰なのかは分からないけれど。
 好きだと宣言した夏の中、見かけた向日葵がとても愛おしく見えた。












   終











久しぶりのSS。なんだか書き方がいつもと違う…
今回は鳴ひよというよりはひよのさんの独りグダグダですね。
普段はウダウダな弟君をバッサリとひよのさんのポジティブシンキンで切り捨てるんですが(…)たまには逆で。
変な言い方なんですが私はひよのさんのこの感慨が非常によくわかるんです。

07/07/25


   *閉じる*