消えてしまうときはもう戻らない戻れない
 この温もりの内に消えてしまえれば













             猫、裏路地へ












「なあ香介、小鉄見なかった?」
「いんや。 なんだ、まだ戻んねーの?」
「うん…もう一週間ずっと見てない…。 なんでかな」

 見事に眉を八の字にして、亮子が嘆息する。
 小鉄と言うのは、猫の名前だ。
 半年くらい前、亮子が拾ってきた雑種の野良猫。
 猫の癖に亮子に妙に懐いてたんだよな。
 でもやっぱり猫だから、フラフラとどっかに行くことはよくある。
 でも翌日にはいつの間にかちゃんと家に戻って来ていた。
 だから寂しさも相まってただの一日二日、一週間の不在にも心配になってしまったんだろう。

 猫がどれくらい年とってたかは定かじゃない。
 でも、老いてはいた。
 亮子が骨と皮になってボロボロな状態の猫を拾ってきたときは正直うわぁと思ってしまった。
 甲斐甲斐しく世話をする亮子を見て、こんな一面もあんだなぁと感心もした。
 尽くすタイプじゃないだろうななんて勝手に思ってたから。

 献身的な世話が効を成して、ガリガリで弱り切っていた猫は倍近く丸くなり、毛皮に艶が出て、よく動きよく鳴く元気な猫になった。
 亮子に恩を感じているように懐いて、亮子もまたそんな猫を愛した。
 老猫の癖に、子猫みたいに亮子の後をついて回る姿は、さながら昔俺の後をずっとついて回ってきた亮子のようで面白くて笑いを誘ったもんだった。

「大丈夫かな……」

 ああ、もしかしたら
 守れるものが欲しかったのかもしれない。
 今にも死にそうな汚い野良猫を本気で助けたかったのは。
 自分の手で助かる存在を 抱き締めたかったのかもしれない。



 亮子はたぶん、あの猫が戻らないことを知っている。
 猫の鳴き声がする度にはっとして辺りを見回すことも、猫の名前を呼んで飯は食ってるか、道はちゃんと横断歩道で車が通らないときに渡ってるかとか
 そういう心配が 日に日に薄れていくことも たぶん知っている。
 だろうから、だから言ってみた。

「アイツ、相当年とってたよな」
「…うん。 でもまだ元気に歩けてたんだからそこまで年寄りってわけでもなかった」
「そうなる前に、おまえの傍を離れたいと思ったんじゃねぇのか」
「………え?」

 俺の言葉に亮子がきょとんと目を丸くする。
 しばらく待ったけど理解しかねてるみたいだったから、言葉を続けた。
「自分の力でちゃんと動ける内に、死なない内に おまえの傍から消えようと思ったんじゃねぇのかな」
「……なんで?」
「そりゃあ…」

 おまえが好きだからだろ。
 おまえが愛をくれたからだろ。

 そう言い掛けて、止めた。

 好きならちゃんと最後まで居てやれば良いのに。
 愛を感じたなら尚更その視界から消えたいなんて思って良いことじゃないのに。

 そう思うに決まってる。

「野良猫のプライドってもんじゃね? ヨボヨボになって死ぬところを人間に見られたくなかったとか」
 心にも無いことを言った。
 言ったあと、理由として無きにしも有らずかも・と思ったけど。

 でも俺がそう 心にも無いコトを言ったことを亮子は察した。


「……あたしが、あいつを可愛がったからかな」

「……」
「あたしがあいつを大好きだったからかな」
「……」
「だからあいつが死んであたしが哀しまないように、動ける内に出てったのかな」
「………」
 ぽつりぽつりと、亮子があんまり悲愴な表情で言うもんで、俺まで苦しくなった。
 何も言わず出て行った猫を恨めしく思う。
 最後まで、最期まで 愛させてやるべきだったかもしれないのに。

 俺が何も言わないのを同意と受け取ったかは分からないが、亮子が急にきっと俺を睨んできた。

「おまえも、あいつの…小鉄の気持ちがわかるのか?」
「……」
 何と答えようか一瞬迷ったけど、亮子の目があまりに真剣で、そして悲しそうで、でもやっぱり真剣だったから。
 俺は笑って「分かるよ」と言った。


 案の定、亮子は泣いた。

「…ッばか!」
 溢れた涙をすぐさま手の甲ではらいながら、俺の後頭部に裏拳を放つ。
「でッ! 何すんだよ!」
「おまえが…ッ 馬鹿なこと言うから…」
「何で! 俺は猫の気持ちが分かるって言っただけだろ」
「それがおまえのこれからのやりかたを示してるんだろッ」
 震える、掠れる亮子の声に俺は次の言葉を失った。

 おまえが好きだから、
 おまえが俺を想うから、

 だから俺は 死ぬときは、落ちぶれるときは。

 おまえの傍を離れるのかも知れない。



(愛するなら、 最後まで、愛させてやれよ…)

 嘆息しながら、自分が先刻猫に心中で吐いた恨み言を繰り返す。



「…っうっ…ぅ」
 よっぽどショックだったのか。
 あんまり見ないほどに亮子は泣いていた。
 泣かせてしまった。

 俺はくらくらする意識を無視し、亮子の頭をぽんぽんと撫でる。
 とりあえず謝ろうと思って口を開いた瞬間、先を越された。とんでもない形で。

「…っ、ごめん」
「…は?なんでおまえが謝んの」
「泣いて…ごめ…っ」

『おまえのやりかたを否定したいんじゃなくて』
『でも悲しくて』
『あたしを想うから終わりをあたしに見せないように・そういうのがすごく哀しくて』


 しゃくり上げながら、途切れ途切れに紡がれた言葉。






 その言葉のあつさと重さとに、一気に胸が苦しくなって。

「……ごめんな」

 俺は祈るような気持ちで亮子を抱き締めた。












   終











06/11/16


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