願うのは自由だとその唇が言った

 優しさの残酷さを云ったのは何よりその瞳だった












             メイオット・ロワン













「今日も聞こえてくるね、歩君のピアノ」

 放課後の新聞部室。
 出された紅茶を受け取りながら、カノンが呟いた。

「最近は毎日ですね〜」
 そう言ってひよのも天井を上目遣いに見上げ、
 マグカップの中から立ち上る湯気に息を吹きかける。
 

 学園の構造で、偶然部室のちょうど真上は音楽室となっている。

 人前では決してピアノを弾こうとしない歩だったが、
 放課後一人音楽室でこっそりと練習しているのはよくあることだった。
 …まぁ、「こっそり」と思っているのは本人だけで、
 すぐ下に位置する部室にいればその音は筒抜けとなるのだが。

 陽の高い昼間ならば、校舎全体の喧騒によってその音は掻き消されるだろうが、
 放課後、紅茶色の幕を降ろしたような夕刻ともなれば、学園内に残る生徒も少なく、
 静まり返った校舎にはピアノの音はよく響いた。


 音楽には全く通じていなくとも、聞こえてくるメロディーはとても耳に馴染んだもので。
 きっと有名な曲なのだろう。

 冷えた空気に乗って、宙を音符が舞うような光景が見えてくる錯覚を起こさせるほど、
 洗練された音色が激情を持って、けれど滑らかに紡がれる。

「音楽喫茶でも開きたい気分ですねぇ」
 紅茶を口に含んで、軽く息を吐いて。 ひよのがうっとりと言った。
 しかしカノンがすかさず笑う。
「はは、嘘だろ?」
「?」
 ひよのが不思議そうに首を傾げると、カノンはどこか含みのある笑みを浮かべた。
 口角だけを持ち上げた、笑みとは少し言い難いような笑顔。

「本当は、誰にも聴かせずに独り占めしたいくせに」
「…え?」
「実はこの聞こえてくる音も、全部。 自分だけのものにしたいんじゃない?」

 ひよのは褐色の目を丸くして、カノンを見つめる。
 相手の碧眼は奥などまるで見えず、それでも淀みなく 吸い込まれそうな光を持っていて。

「……自分だけのものに、ですか」

 口の中で言葉を転がしながら、立ち上がって日の暮れる窓の外に目をやった。
 天井からは、留まることなくメロディが降ってくる。



 劣等感からではあるものの、決して人には聞かせたがらない、その天使の紡ぐ音。
 そんなものを、自分だけのものにできたら。
 自分だけの為に奏でてくれたなら。

 もっと言えば、その存在すら 自分だけのものであれば。



 音楽を捨てた・諦めた という彼が、
 それでも彼には音楽がすべてだと言っても良いほど大きなものであることは分かる。

 そんな彼自身とも言える『音』を、彼自身を。

 自分の中にだけ。 閉じ込めることができたなら。




 やがてひよのはふっと小さく笑い、嘆息混じりに言った。
「何をおっしゃるかと思えば…」
 向き直ったひよのに、カノンはわざとらしく首を傾げる。
「それくらい強い気持ち、持ってないの?」
「………………」
「その沈黙は肯定だな」
「何が言いたいんですか」
「別に。 ただはっきりさせたかっただけだよ」
「…………………」

 長い沈黙と共に、探るような目で見つめてくるひよのに、カノンが口の中で笑う。
 そしてカップを机に置くと、 たん、と椅子を引いて立ち上がった。

「…?」
 そのままゆっくりと歩み寄ると、ひよのは怪訝そうな顔で後退る。
「カノンさん?」
 ひよのの顔や声に焦りはなく、ただ疑問に充ちた目でカノンを見つめた。

 カノンの表情は、感情というものを帯びてはいなくて。
 ぴんと張り詰めた空気のまま、ひよのを壁へと追いやる。

「…、カノンさ―――」
 ひよのが言い終わる前に、カノンの右手がひよのの顔の真横を叩いた。
 どんっ、と鈍い音が響き、ひよのの目が驚きで丸く見開かれる。


「好きなものを独り占めしたいって気持ちは誰にもあるよ。
 強い弱いの差はあるだろうけど」
 そう言って、上目遣いで睨んで来るひよのの顔に自分の顔を近づける。
「…何のつもりですか」
「歩君にも、誰にも触れさせないようにする…っていうのが、一番の方法かな?」

 額が触れるまで僅か数センチの距離は、互いの吐息すら感じる近さで。
 それでも二人は視線を離さない。
 互いの瞳の奥を読もうと思考しても、相手のそれは簡単に読めるものではないことは
 恐らく互いが一番よく知っていて。

 物怖じすることなく、真っ直ぐに自分を見据えるひよのの視線。
 それに満足そうに笑うと、カノンは左手をゆっくりとひよのの細い首に当てた。

「…私を殺すつもりですか?」
「……僕がブレード・チルドレン以外は殺さないって制約を守ってるのは…知ってる?」
「えぇ」
 笑顔で尋ねるカノンに、ひよのも小さく頷く。
 そして不敵に笑い、「でも」言葉を重ねた。

「それとこれとは別問題でしょう? どっちの世界、なんて関係なく…――」



 愛は時に、人を殺すんです。

 色んな、意味で。




 ひよのがそう言って笑った。
 耳元で鈴が鳴ったのかと思うほど、涼しげな声。
 しかし時にその唇から紡がれる言葉と声は、全てを見透かし、貫く力を持っていることも 知っている。

 カノンの手は既に、ゆるゆると自分の首を絞め始めているのだけど。
 それでもひよのの目から光は消えない。

「…それって、どういう意味かな?
 僕が制約を気にしないで、キミを殺しても構わない・と?」
「いいえ。 それでもあなたは私を殺せませんよ」
「大した自信だな」

 呆れを含んだ声で言うカノンに、ひよのは満面の笑みを浮かべた。

「だって、私には鳴海さんがついてますから」


「……まったく…そういうこと言って…。
 僕が嫉妬に狂って歩君を殺そうとしたらどうするの?」
 声は明るく響いたが、そう言ったカノンの目は笑っていない。
 それを感じながらも、それでもひよのは迷わずに「それも無理です」と首を振り、続けて。



「鳴海さんには、私がついてますから」




「…―――――」


 奥が隠されて見えないのは同じだけれど。
 今までで一番、その瞳が綺麗に見えた。

 なんて、綺麗な笑顔。

 迷いなんかこれっぽっちもなくて。




 そして最後に、決まって自分の心を突き刺す。
 それは否応無しにすべてを浄化してしまう、光のナイフのようで。



「カノンさん、あなたには誰がついてますか?」

 そして、
 あなたは、誰についてるんですか?
 誰を守るんですか?

 できるかできないかじゃなくて、
 守りたい大切な人がどれだけいるかで。

 自分はその人にどれだけ笑顔を分けてあげられるかで。
 その人の涙をどれくらい引き受けることができるかで。





「あぁ、キミといると自分が嫌いになって困る」
「あはは。 それはそれは」


 そこでやっと、カノンは左手をひよのの首から離した。
 そこまで強く力を込めはしなかったが、白い首筋は少しだけ紅くなっている。

「…」
 そのまま無言で、紅い痕に沿ってゆっくりと指を滑らせる。
「!?カノンさん、何っ…」
 突然のことにひよのが驚いて非難の声を上げると同時に、その口を左手で覆う。
 そして目を白黒させて凝視してくるひよのに満足そうに笑いながら、
 カノンはその左手の甲に口付けた。

「別に、何でも?」
 そう言って今度はすかさず額にキスを落とし、ゆっくりと後ろに退がる。
「〜〜〜!」
 普段の涼しく、淡々としたまでの彼女が顔を紅潮させ、何も反論できずにいるのがとても快い。
 カノンは声を出して笑って。


 今のやりとりを歩が見ていたらどんなに面白かっただろう、
 など物騒なことを考えながら、扉の方へと足を向けた。

 ドアノブに手を掛け、飲みかけのマグカップと、まだ沈み切らない窓の外の夕日と、
 ゆっくりと視線を滑らせ、最後にひよのに振り返る。

「ひよのさん」
「何ですか!」
 漸く声を荒げて抗議に出ようと、ひよのがいきり立った。
 しかしカノンはさらりと笑い、短く告げる。

「ありがとう」

「……何がですか」
 笑顔に毒気抜かれ、それ以上何も言えずにひよのが頬を膨らませた。






 全てを捨てて諦めた自分に、
 大事な人間がどれだけいて、 それをどれだけ守りたいかを思い知らされてしまった。

 全てを黒く塗りつぶす覚悟をしていたのに、それを揺るがされて。
 諦めて目を背けた、希望という光を また手を伸ばしてしまいそうになって。

 本当は、「ありがとう」なんかじゃなかった。

 それなのに。





 ありがとう。
 キミになんて出逢わなければ良かった。






「私は怒ってるんですよ。 なのに…その目は、反則です」
 笑顔で隠された、カノンのその目の強く暗い光と、哀しい揺らぎを読み取り、
 ひよのは困ったように笑った。


「カノンさんも、私にとっての大事な人です」

「…ありがとう」


 笑って、扉を閉めた。





 廊下を数歩歩いて立ち止まる。

 うつむき、左手で顔を覆ったカノンと、
 部室で残されたひよの。

 二人のため息が重なった。
 見えない場所で。










 上からは止まない、
 耳に、心に 『響く』 哀しいほど美しいメロディー。










   終








2003年のゆらしゃんの本「スカーレットメア」にゲストで書かせていただいた、
「レゾンテ・レジオルデ」の加筆修正版です。
だ〜いぶ違う感じになったかと。 ていうか原本(?)読んでくださったお方がどれだけいらっしゃるのかしら…!

カノンさんのセクハラの後、かなり歯の浮くよ〜な台詞をのたまってたんですが 割愛しました。(笑
いやぁ時の流れって凄いね!
でもやっぱり「カノひよ鳴」愛!


06/03/04


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