「なんでアンタがここにいるわけ?」
 わなわなと震える手でこめかみの辺りを抑え、キリエが絞り出すように問う。
 その顔が見たかった、とでも言うように、にこりと火澄の満面の笑みが迎えた。











この肺を満たすものは











 朝。
 太陽が昇り、人々が窓を開けて空気を入れ替え始める頃。
 仕事で使用する書類の整理に手間取り、結局朝帰りになってしまった。
 眠くて朦朧とする意識と、重たい足を引き摺り、やっと落ち着ける我が家のドアを開けたときのこと。

 いつものように叫ぶ気力もないのか、弱々しく言葉を発するキリエに、火澄は構う様子もなく笑顔で述べる。

「心配しなくても、ちゃーんと清隆に許可は貰たで」
「人権蹂躙も甚だしいわ、あの男…。
 でも私はそういうこと訊いてるんじゃないわ。 なんでアンタが飄々と平然と、私の家に居れてるのかって訊いてるのよ」

 冷静に、日本語をよく知らない外人に言葉を言い聞かせでもするかのように、白々しいほど言葉をひとつひとつ強調させながらキリエが言う。
 火澄はまったくそれに動じる様子も見せず、手を頭の後ろに組んで、子どもがそうするように頬をぷうと膨らませた。
「だって行くとこ無いんやもん」
「嘘吐きなさい」
「ふぅ。冷たいなぁキリエちゃん。
 俺かて誰かが一緒の、あったか〜いマイホーム言うもんが欲しいんやってー」
「だから、何でそれが私なのよ! ふざけてないで出て行きなさい!
 清隆が関してなかったら立派な不法侵入よ」
「清隆関係無く不法侵入やって」
「………」
 じろりと睨み付けるキリエに、火澄が大げさに身を竦めてみせる。
 そして今までの言い合いなど何も無かったかのように、
「それよかキリエちゃん、こんな朝まで仕事なんて大変やなぁ。 俺メシ作ったけど食べる?」
「作ったけどって…ここで!?」
「決まってるやん」
「……、………あーー」
 色々言いたいことがわっと溢れ、結局言葉にならかった。
 頭をぐしゃぐしゃと掻き、上に向けてうめくように言葉を発すると、キリエは真っ直ぐに火澄を見据えた。


「火澄、あんた…自分の立場わかってるの?」
「……分かっとるつもりや」

 困ったように眉根を下げ、けれど笑みは浮かべたまま


 でも、
 それ以上にな、…


 独り言なのか、誰かを諭したいのか、判別のできない小さな声。
 けれど、切実な声。


 相手には聞こえるだろうけど。


 届きはするだろうか。








 キリエは何も言わず、くるりと踵を返すと、不自然なまでに静かな所作で扉を開け、そして外に出て行った。



「……あーあ」
 後悔なのか、哀しさなのか、どちらを表現したのかわからないため息を吐いて、
 火澄は変わらない笑顔で 閉ざされた扉をしばらく眺め続けていた。

 今度はいつ開くだろう、
 果たして開くことはあるのだろうか。

 そんなどうしようもないことを考えながら。












 冬が近付いていた。
 落ちていく気温よりも先に、白く暗く厚さを増していく雲がそれを知らせた。
 それはどこか、自分の口から吐き出される煙によく似ていて。

 ただ何かに苛付く精神を誤魔化すように、ただ黙々と、誰も居ない公園のベンチに座り、煙草の吸殻だけが増えていく。




『だって行くとこ無いんやもん』





 当たり前だ。
 行くところなど。
 居られる場所など。
 あるはずがない。
 分かっているのに。
 きっと本人だってわかっている。
 それを諦めさせるのに、自分の口からどれだけ辛辣な言葉を吐いてきただろう。




 この煙草の煙を吐き出すように、いとも簡単に。







「……」

 眠い。

「……」

 寒い。

「…あー…」

 お腹が空いた。



「帰ろっと…」

 立ち上がり、コートを正し、続いて癖のように背中にさらりと垂れる髪を掻き上げると歩き出す。




 今の彼が自分の家でどんな顔をしているのか
 少しだけ、気にかかりもした。












「キリエちゃん!? うわ、おっかえり!」
「…なによ、何その無駄に高いテンション」
「だって戻って来ーへんと思ったから」
「ここは私の家よ。 帰ってくるに決まってるでしょ」

 眠いし。
 そうつっけんどんに付け加えると、まだ何か言いたげな火澄の横を素通りして寝室に向かう。



「おおきに、キリエちゃん」
「?…何」
「我慢、してくれて」
「……」
「ほんま、俺がいる内は戻って来ぇへんと思った」
「…………、」
「だから、めっちゃ嬉しいわ」



 笑った。
 まるで笑うことが罪であるとでも言いたげな笑みだった。




 何と答えていいかも分からず、相槌を打つようなものなのかも分からず、キリエは何も反応せずに寝室に入り、ゆっくりと扉を閉めた。
 あの空気が支配する場所から、逃げるように。
 寝室に入ると、煙草の臭いが染み付いていて、漸く自分の家に戻ってきたという実感が湧く。


 意外と心は穏やかだった。
 穏やかというよりは、冷たいまでに静かなだけかもしれないけれど。









『我慢、してくれて』



『俺がいる内は戻って来ぇへんと思った』





 どうして。
 どうしてあんな顔で笑う。
 これくらいで。
 私の家に踏み込んだだけ。
 そこに私が帰ってきて、拒否して出ていっただけ。
 そしてまた戻ってきただけ。



 どうしてそれだけで、
 あんな泣きそうな顔で。
 安堵か。
 今更、どんな拒絶をされれば傷つくのだろう。


 これ以上傷がつくだけの素肌が彼には残っているのだろうか。




 住みなれた部屋。



 安堵を覚えるほどの、習慣じみた煙草の臭い。


 息を吐いて、
 息を吸って、




 何かひどく汚れたものが肺に入り込んできたような気がして、しばらく胸を抑えて咽せていた。

















 終









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ほんと、なんでもない話。
ただちょっと衝動で書きたくなって…(汗)


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