すべてを葬って 存在を掻き消して。

 それでもあなたという曖昧な記憶だけは消せそうにないのだけれど。









   +残骸+









「鳴海さん、どうして最近部室にいらっしゃらないんですか?」



 この女は、すべて分かっていて言ってるんだろうか。
 …いや、分からないはずはないんだ。




 放課後の長く伸びる廊下に、二つの足音が響く。


 ひよのの不満そうな声のあと、足音は止み、代わりに歩の嘆息が重く響いた。



 今日ここで会ったのは。
 音楽室の近くでも新聞部室の近くでもなく、ここで会ったのは。
 偶然、のはず。





 ひよのの言う通り、あれほど日参していた新聞部室に赴かないようになって二週間は経つだろうか。




「―――」
 わけを、言おうかと思った。
 実際、口に出した。

 けれど、思っていた通りの言葉は出なくて。
 それはたぶん、その内容が吐き気がするほどのものだったからだろう。



「鳴海さん?」
「……声が、聞こえた」

「え?」
「……………」
 今の言葉で分かるはずだ。
 心の中でそう呟き、歩は精一杯の無表情で、ひよのを見据えた。









 二週間前の、放課後。

 普段と同じように部室に向かって、普段と同じように扉を開こうとした。

 きっとその主も、普段と同じように迎え入れてくれるだろうと思った。
 …思う必要もないほどに、それは「普段」だったから。



 けど。
 部室の中は「普段と同じ」ではなくて。




 1センチほど開いた隙間。
 扉に掛けた手が一瞬で冷えたのがやけに記憶に残っている。



 声、が。 漏れて来た。




 その声が耳に流れ込んで
 「中」で起こっていることを一瞬で理解できたとき、

 自分の頭が、このときばかりは正常に機能していなければ良かったのに、と

 ぼんやりと考えている自分がどこかにいた。








「…あ、なーんだ!」
「……?」
 しばらく歩の顔を見つめたあと、ひよのが笑顔でぽんと手を打った。

「カノンさんとのアレ、聞こえちゃったんですかー」
「!?」
「それで部室にいらっしゃらなくなってたんですねー、鳴海さん。でも大丈夫ですよ、今は部室ではやってません」
「………………あ、」
 けろりと言い放つひよのに、信じられないと言った顔で歩が何か言おうと口を開く。

 体中が氷のように冷たい。
 喉を空気が抜ける感覚はあるのに、上手く声が出せなかった。



 けれど、





「…カノンと、付き合ってるのか」
「え?いいえ。そう見えます?」

 さも心外だ、といった顔でひよのが問う。




「…………」

 そんなことで自分が安心できるはずもなく。

 また、自分が何に不安なのか
 何に安心したいのか



 知りたくもないし。




 歩はひよのの問いに、嘆息で返した。







「じゃあ、この件は解決ということで♪ 今日は部活動終了なので、よろしければ鳴海さん、一緒に帰りましょう!」
「……ああ、」




 無粋な表情のままそう答えると、ひよのは満足そうに笑い、鞄を取りにと部室まで駆けて行った。




 その背中を見送ったあと、歩はそこにある窓の縁に凭れ、大きく嘆息する。
 なぜか、共にあの部室に行く気にはなれなかった。
















「それじゃあ鳴海さん、送ってくださってありがとうございました!」
 門の前でぺこりと笑顔で頭を下げるひよのに、歩がああ、と答える。
 帰り道、「普段」と何ら変わりない様子でひよのは喋り続けたが、カノンの話題だけはひとつも上らなかった。

 それが、何を意味しているのかは、分からないけれど。





「それじゃな」
「はい、また明日!…あ、それと鳴海さん。面白そうな映画発見したんです!明日部室で一緒に観ましょうね♪」
「…ああ」
 上の空のような返事をし、結崎宅に背中を向ける。

 断る理由はなかった。

 でも、正直、あの部室に赴くにはそんな気分になれないことは確かだろう。
















 翌日の放課後。


 扉の前で部室に入るのに躊躇っている歩に、ひよのが苦笑した。
「あはは、そんな顔しないでくださいよ、心配しなくても汚れなんかありませんよ〜」
「……」
 昨日の会話が会話であり、相手がこのひよのである。
 もちろん、「汚れ」とはきっと、タダならぬ意味だろう。

 やはり理解できないな、と。
 歩は肩から嘆息し、重い足で扉を潜った。











「う〜ん……微妙でしたね」
「てか面白くなかった」
 エンドロールがゆっくりとバラードに合わせて流れていくのを眺めながら、ひよのの苦笑と歩の嘆息が重なった。

「アクションとミステリーと自然とホラーと恋愛が混ざったヒューマンストーリーって。バラエティにも程があるぞ…。一体どこが面白そうだったんだよ」
「だってほら、お得な感じじゃないですか〜。 でも一番の理由は、この俳優さん好きなんです、私」
 言いながら、ひよのが画面に出てきている名前を指差した。
 主人公の親友役の男だ。
「演技お上手ですよね〜」
「ああ、それは確かに…」
 特にクライマックスの、恋人の女に刺されたときの演技は、なかなかのものだった。
 それを言うと、ひよのも嬉しそうに頷いて、
「そう、やっぱそこですよね〜!痛みに苦しむ演技ってすごい難しそうなのに、すごいですよ!」





 それからしばらく、映画の感想をあれこれ言い合ったあと、「でもやっぱり面白くはなかった」という結論に落ち着き、二人は帰り支度を始めて。











 何日が経っただろうか。
 部室で映画を観てからは、歩は以前のように新聞部室に足を運ぶようになって。
 ひよのは何も変わらずに笑顔を向けてきて、何も変わらずに話した。
 カノンの話題がのぼることだけは、なかったけれど。
 また「普段」が戻ってきたような気がして、歩は無意識の内に安心していた。




 けれど。









 声が、聴こえた。











 閉め切られた部室の扉から微かに、でもはっきりと、声や音。

 思い出したくもなかった声。
 忘れかけていた音。



 体中が一瞬で粟立った。










 しかし今回が、前と少しだけ違っていたのは。


 聞えてきたのは、
 怒鳴り声や何かを叩く音、壁に当たる鈍い音。

 誰が何をされているかはすぐに想像がつく。



 けれど


 少しだけ、おかしいのは















 何秒か経ち、扉がガラリと開けられた。
 カノンが中からツカツカと出てきて、そこに立ち尽くしている歩には目もくれずに去って行った。




「………あ」
 しばらく呆然としていた歩だったが、すぐに我に返ると、急いで開け放たれたままの扉を潜った。






「あら、鳴海さん」

「――――え…」
 すぐに目に飛び込んできた光景に言葉を失った。




 しかし、ひよのはまったく変わらない笑顔を歩に向け、まったく変わらない声で歩の名を呼んで。








「あんた……大丈夫なのか」


 倒れた椅子や、砕けて散らばっているカップの破片。
 何よりひよのは肌蹴た制服から体中に痣を覗かせていて。
 表情や声とは裏腹に、ぐったりした様子で壁に凭れるようにして座り込んでいる。
 その床にも少し血の滴った痕もあって。





 あまりのことにどうしていいか分からず、とりあえずひよのの傍に屈みこみ、手を伸ばす。
 しかしひよのは、
「困ったもんですよね〜。服も脱がずに…それもそのまんまで行っちゃうんですから」
 言いながらよいしょ、と立ち上がる。
 制服の上着の残っているボタンを止め、スカートの皺を伸ばし、叩いて埃を落とす。
 めちゃくちゃになったお下げも外し、今度は倒れた椅子を直しにかかっていて。

「…おい、あんた何してんだ」
「何って…後片付けですよ?」
「何してんだよ!こんな血も出るくらい怪我させられて、あんた今までだってレ――」
「何でもありません」
「…っ」
「何でもないですよ、鳴海さん。痛くないしお片付けだって辛くありません。大丈夫です、何でもないんです」
「何でだよ…」
 尚も食い下がろうとする歩を、ひよのの涼しげな瞳が遮る。
 歩が言葉を詰まらせると、ふっと微笑い、ミニ箒を取り出してカップの破片を掃き始めた。

「…………」









 扉の前で感じた違和感の正体。
 理不尽に組み敷かれているはずの彼女が、決して助けを請う声を発していなかったこと。
 拒絶も 苦痛も 何も
 本能が出す声、それ以外は
 何も、感情を声に出すことはなかったこと。


 きっとそれだったと、なんとなく分かった気がした。















 分かる。
 当たり前だ、いやでも分かる。
 痣だらけの細い足が震えてるのも。
 手だって震えて、その手が持つ塵取りの中の陶器の破片がかちゃかちゃいやな音を立ててるのも。
 鼻歌でも唄い出しそうなほどの笑顔を浮かべているあんたがこれ以上ないくらい泣きそうなのも。
 あんたは前の映画で「痛いように見せることは難しい」って言っていたけど。
 でも本当は違う。あんただって知ってるはずだ。
 痛いのに痛くないように見せることのほうが、ずっと難しいに決まってる。
 なんであんたがそれをしようとしてるのかは知らないし知りたくもないけど。


 …痛い、なんで俺にそう言わないんだ。












 あらゆる苦痛の、不満の言葉が喉の奥に詰まり、記憶にも残らないほど奥へと消えて行って。
 何も言えずに。
 けれどなぜか、歩はひよのの体を後ろから抱き締めていて。





「っちょっと…鳴海さん!?」
「……………」
「何でもない、大丈夫って言ってる女の子は、抱き締める必要はないんですよ?」
 そう言いながら、ひよのは笑って歩の手を離そうとする。
「っ…何が大丈夫なんだよ」

「どーでもいいことだからですよ」

「…?」
「何をしようが、何をされようが。カノンさんはどーだっていい人なんです、私にとって」






 呆然とひよのの顔を眺める歩を見上げ、ひよのは微笑って。
「私はカノンさんを愛してあげません。憎んでもあげません。そういうことなんです」




 だから私は、大丈夫なんです。
 どっちかとゆーと、大丈夫じゃないのはカノンさんの方ですよ。












 あくまでずっと笑顔で「大丈夫」と言うひよのに、歩は何も言えなくて。
 そのまま片付けを手伝ったあと、着替えたいから少し出ていて頂けますか?と言うひよのの言葉で、部室を出た。



「…………カノン」
 後ろ手で扉を閉めながら、歩が無表情にそこにいた人間の名を呼んだ。
 カノンは困ったように笑って。

「ひよのさんから聞いたかな?…あれだけやってても、」
 ひよのさんは僕のこと好きにならないんだって。それなのに、嫌いにもならないんだって。

 笑いながら言うカノンの言葉に眉をひそめながら、歩は嘆息した。
「……あんた、何がしたいんだ?何のためにあいつにあんな…」
 しかしその言葉をカノンは遮り、
「分かるかい?好きにも、嫌いにもならない。つまり、ひよのさんの心の中に、僕はいられないんだ」


 それが、すごく寂しくて 痛くて。



 カノンはそう言って、俯いて顔を右手で覆う。
「憎んでくれてもいいんだ。僕のことを忘れられなくなるくらい、憎んでくれたなら僕はすごく満たされるんだよ?それを知ってるから彼女は…」



 はらはらと、床に落ちる雫をぼんやりと眺めながら。
「…とりあえず、」



 どいつもこいつも。なんでこんなに痛いやつらばっかりなんだ。

 心の中でそう吐き捨てて。




「あんたに泣く資格はないだろ」












 無表情に呟く。














「………」
 そして思う。哀れだと。
 この男は本当に哀れだと。






 そう同情できるのは、きっと










 憎しみでもいいから「感情」が欲しい、そう思えるくらい
 狂おしく彼女を愛する気持ちが


















 少しだけ。
 少しだけ、










 理解できなくもないからだろう。





















 終







++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


   *閉じる*