ただひとつ
 癒しを与えてくれるのは、

 すべてを切り裂くナイフのような君の心。











  +マム・ベイン+











 ぽろん、ぽろん。


 白と黒の盤上を細い指が滑る。
 その紡ぎ出す音色はどこまでも無色で、何にも染まらない。



「空気みたいな音ですねぇ」



 ぽろん。
 音が止んだ。

 アイズは指を鍵盤に掛けたまま、視線を少し離れた先で椅子に座っている少女――――ひよのに向けた。
「・・・どういう意味だ」
「そのままの意味です」
 笑顔でそう言うひよのを「・・・」一瞥し、アイズは再びピアノを弾き始めた。



 ぽろん、ぽろん。



 その紡ぎ出す音色はどこまでも無色で、何にも染まらない。

 何にも。

 そう、


 その心にさえも。



「きれいな音ですね〜」

 とても、その手が、その指が、その心が、血で染まっているなど考えられないほど。

「・・・この国の空気は綺麗ではないだろう」
「あはは、確かにその通りですね」

 ぽろん、ぽろん、ぽろん。



 この世界の空気に似た、淀んでいて どこまでも透き通ったその音色。



 ぼんやりとその音色を聴きながら、ひよのがぽつりと呟いた。

 誰に話し掛けるでもない、けれどどちらかといえば
 その揺るぎない けれどすぐに打ち崩されそうなほど儚い 矛盾した音に尋ねるように。



「・・・誰に、何を伝えようとしてるんですか?」



 届かないことを確信しているかのような想いを、叶わない絶望の祈りに乗せて。




 ぽろん、ぽろん。ぽろんぽろん。



 アイズは無言で。ただその指だけが饒舌にピアノの上を滑っている。










「苦しいですか?」








 ぽろんぽろん。







「救われたいですか?」






 ぽろん、ぽろん・・・。








「信じたいんですね?」









 ぽろん。

 指が止まり、空気が止まる。
 ひよのの耳に名残惜しさを残し、メロディは沈黙した。



「・・・・・・・・・・・・・・・おまえ、は」



 そう呟いて、言葉が止まる。




 信じたい?

 なにを?


 そんなの、決まってる。



 呪いを受け止めて諦めてしまった淀んだ心に、
 人並みの幸せが下る時がくると。





 どうしようもなく、宙を彷徨う両手の代わりに
 癒しを、希望を、幸せを与えることができる「誰か」を。








 ああ、なんて。
 弱くて
 か細くて
 残酷で
 独りよがりで
 けれど誰よりも寂しい
 呪われた

 彷徨う魂。





 なんて 哀れな。














「私は・・・信じても疑ってもいませんよ」

 ひよのの言葉に、アイズはふ、と小さく微笑うと、また鍵盤に指を掛けた。








 ぽろんぽろん・・・






「でも、幸せになれるよう祈っていてあげますよ」






 ぽろん、ぽろん。






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」














 ぽろんぽろん、ぽろん。















「幸せに、なれるといいですね」














 何を想うか計り知れないその声で紡がれた言葉に、アイズは小さく、
 アイズ本人でしか分からないほどに小さく、頷いた。








 幸せになれなくてもいい。
 ただ

 できれば、これ以上何も失わず済むように。






 それにはこの心をすり減らさなければならない。
 それも構わない。

 ただできれば、
 そうなったとしても、この心で何かを感じることはできるように。
























「苦しいですね」

























 ぽろん、ぽろん。ぽろんぽろん。













 決して消し去ることなどできないことを知っていながら。
 アイズはすべてを振り払うように、鍵盤と語りつづけていた。


 この世界の空気に似た、淀んでいて どこまでも透き通ったその音色。

 誰にも染まらず 誰にも染められず ただ存在するあまりにも儚い音色。

 気付かないうちに汚されてしまった 哀れな音色。


 目を閉じてその音色を聴きながら、ひよのは眉を寄せた。





















 終


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


   *閉じる*