願わないのは、叶わないからではなく 願うのも、叶って欲しいからではなく あの声を他と間違えるはずはない。 けれど突然ノックと共に「お久し振りです」などと部屋に入って来られては、いつかのあの瞬間が不意に脳裏に過ってしまっても、仕方のないことだろう。 「…あんたか、随分久し振りだな」 歩は胸の内で嘆息しながら小さく微笑い、その突然の来訪者――竹内理緒を迎えた。 「生憎の雨で星は見えそうにありませんね」 残念そうに笑う理緒の言葉に、歩が窓の外のさらさらと落ちる雨を見やる。そしてああ今日は七夕かと呟いた。 「短冊に願い事書けって言われてたっけな」 サイドテーブルに置かれた数枚の短冊を指差すと、理緒がついとそれを手に取る。 「1階の広間に大きな笹がありました。みんな楽しそうに書いて飾ってましたよ」 「そうか」 短く言って肩を竦める歩と何も書かれていない短冊を見比べながら、「…弟さん、お願い事書かないんですか?」理緒が淋しそうに言った。 「せっかく織姫さんと彦星さんがみんなのお願いを叶えてくれる、大盤振る舞いの日ですよ」 「あんた、そういうの信じてないんじゃないのか?」 眉を上げて意外そうに言う歩に、理緒が短冊をひらひらとさせながらにっと笑う。 「これは神様じゃなくてお伽話ですからね」 「そっちの方を信じるのか」 「弟さんに何かを願って欲しいって、思ってるんです」 不意に真剣な眼差しを向けてきた理緒に、歩が困ったように首を振った。 「生憎だが、叶えて欲しい願いが無くてな」 「…会いたい人に、会いたいとか」 「どうせ叶わないとか、考えてるわけじゃないんだ」 おずおずと零された理緒の言葉に応えず、歩が遮るように肩を竦める。 そしてあんたが願い事書かないかと続けた歩を、理緒がきっぱりとした目で見据えた。 「あたしが会いたい人に会いたいという願いは、叶いません」 「―――」 満天の星を渡る力を持ってしても。一年に一度だろうと。たとえこれから一生の間の一度だって良いと願っても。 「居る人じゃないと、会えません」 「……そうだな」 悪かった、と小さく息を吐く歩に、理緒が「謝って欲しいわけじゃ」眉を寄せた。 「ただ、弟さん。さっきここにあたしが入って来たとき。ドアをノックしたのが誰だったら良いって、一瞬でも思いませんでしたか?」 「…………」 これには完敗だった。 そう、暫く忘れていたようだ。かつて強く聡明で、自分では絶対に勝てないと思った女性が二人いた。目の前の彼女が正にその一人だったことに。 別にその「会いたい人」に会えと言っているわけではないと理緒は言った。 ただ、そうあったら良いということを願って欲しいだけだと。 「弟さんには、もっと欲張って欲しいんですよ」 幸せになって欲しいのだと。そんな単純なことをなかなか伝えられない。 かつて誰よりも非力だった彼は、いつの間にか自分が唯一信じられる、祈りを向けられる神のような存在になっていたから。 「欲張るってなあ」 「今夜の空の星全部を俺のものにしたい! とか、そんな感じで良いんですよ今日は」 「今日は雨だぞ」 「雲の上では、宇宙では関係ありませんよそんなこと」 「そうか」 「そうですよ」 理緒にずいと渡されたペンを左手で受け取ると、歩は短冊を前に苦笑する。眉を下げて、困ったように、嬉しいことだけれど心底困ったというように笑った。 「叶うも、叶わないも、関係無しだぞ」 少し照れ隠しのように真面目に言う歩に、理緒が嬉しそうに頷く。 ゆっくり、さらさらと、短冊の上に歩のペン先が動き出した。 終 |