苦い、甘い、苦い 苦い 甘い 泡沫ビタースイート
「あら浅月さん、奇遇ですね」 澄ました彼女の声に、香介は苦笑しながら「奇遇ねえ」肩を竦める。 「俺が講義終わる時間に、俺の大学の前に、たまたま偶然通り掛かったのか? 嬢ちゃん」 嬢ちゃん、その呼び名にだろうか。彼女は懐かしげに少し目を細め、そしてふふと柔らかく笑んだ。 いつ日本に来たんだ、という香介の問いに、彼女は始発で来ましたと答える。 「ここは経由しただけで…ちょっと立ち寄っただけなんですけどね。今日が2月14日だって、思い出しまして」 「バレンタインか」 「浅月さんは沢山貰ったんでしょう?」 「まあ、ぼちぼちだな」 「あらご謙遜を」 「返すアテもねーしな、そんなに貰っても困るって」 「それはまた酷い」 そんな他愛もないやりとりで朗らかに、急速に流れる時間。 どれくらい振りかも分からないほど久し振りに顔を合わせて、すぐにこんな空気になれることに彼女は安堵する。 彼女の安堵を察して、香介は苦笑し、そして心から微笑う。 どんな理由でも、どんな些細な瞬間でも。彼女の心が穏やかであるのは、多分誰しもの願いだ。 「ここは経由しただけってことは、そんなに時間無いのか?」 左腕の時計にちらりと視線をやり、香介が何気なく言った。 彼女は残念そうに眉を寄せることで時間があまり残されていないことを示す。 そして鞄から小さな包みを取り出して、香介の前に差し出した。 「ここで会ったのも何かの縁ということで…これを鳴海さんに渡してもらえませんか?」 「チョコ?」 「バレンタインですしね」 「たまたまバレンタインだって思い出したのに、用意してあったのか?」 「意地悪ですねえ」 ぷうと頬を膨らませる彼女にははと笑い、香介がふと真剣な眼差しで彼女を見据えた。 「俺が…受け取らない、自分で渡しに行けよ、って言ったらどうする?」 その言葉に彼女が少しだけ目を見開く。その言葉は予想していなかったようだ。 「……一生のお願いを、ここで使いましょうかね」 呟くように言う彼女に、尚も香介は真剣な顔で。 「俺が一生のお願いだから、あいつに直接渡しに行ってくれと言ったら?」 「…………」 「分かったよ、んな顔すんなって」 縋るような彼女の視線に、降参だというように香介が両手を挙げた。 彼女がこんな風に、弱みとも言えるような表情を、空気を見せられるのは多分自分に対してだけだろうと。そんなことをぼんやりと思う。 それなら、その気持ちを無碍にすることなど出来るはずがない。 「…ありがとうございます」 包みを受け取った香介に、彼女が安堵したように笑む。その様子に香介は小さく頷き、そして嘆息した。 「嬢ちゃんがどうすれば、あいつが喜ぶか…知ってるはずじゃねーのか?」 「知らないんですか? 想いを伝えれば、人魚姫は泡になってしまうんですよ」 「嬢ちゃんは人魚姫じゃねーから、泡にはならねーよ」 「私は違いますよ」 私は、ただの臆病者です。 彼女が小さく、小さく呟く。告白とも呼べるほどの、彼女が打ち明けた弱み。 それに香介が一瞬呆気に取られていると、彼女は何もなかったように笑みを浮かべた。 「人魚姫は、鳴海さんの方です」 「……」 想いを伝えれば、泡になってしまうらしい彼は。 この包みを自分から受け取ったとき、どんな顔をするのだろうか。 一番苦い思いをしているのは自分ではないのか。 相変わらず損ばかりしているような気がする自分に嘆息しながらも、受け取った包みを掲げて見る。 「いっそ俺が食っちまおうか」 伝えられない彼女の想いごと。 返すことの出来ない、彼の想いごと。 そんなことを考え、やれやれと苦笑して。結局包みを大事に鞄に仕舞った。 向かう先は、彼の住まう病院。 「…馬鹿だよな、ホント」 泡沫と消えてもいい。伝わりさえするのなら。 それは苦くとも、幸せだと呼べやしないだろうか。 終 |