好きだと言う、とても大事なその言葉に。
 彼女はすべては間違いだと首を振った。











                     滴る黒












 思い切り眉をしかめ、そしてやれやれと肩を竦めながら彼女は言う。
「私を好きだなんて。そんな可哀相なこと言わないでくださいよ鳴海さん」
「可哀相って、誰が可哀相なんだ」
 彼は憮然と尋ねる。
 誰が可哀相なんだ。あんたか。俺か。
 目の前の人間は同情する瞳でも同情して欲しい瞳でもない。と思う。

 そもそも言いたい言葉を言うべきときに、周到に用意された場面と空気の中で口にしたわけではない。そもそも言うつもりなんてなかった。
 ただ好きでいただけだから、これからもただ好きでいたかった。その感情に何らかの報いを受け取ろうとしたわけでも何でもないのに。

 心がふとしたときに重なる瞬間なら、きっと何度か感じていた。
 好きだと告げたなら、たぶん彼女は、幸せそうな顔をしてくれるのかもしれないと、思っていたほどには。

 彼の口から「あんたが好きだ」などという言葉がふと飛び出して、そして彼女の顔が曇る。
 ことの始まりはいつもと変わらないはずの、彼女とのやりとりだった。


 テレビ塔から戻ったあと、これまで通りには話せなかった。
 希望を繋ぐために、己の孤独を埋める唯一の希望を手放した彼は、疲れ果てていたのは勿論のこと。何より、彼女の様子がどこか違っていた。
 彼女の表情の、どこか焦燥を含んだ強張りは、ともすれば見落としてしまいそうなほど小さいものだったけれど。
 それについて何か問うた方が良いのかどうか分からないまま沈黙していると、彼女がそれを破った。
「……鳴海さん、」
「ん?」
「あなたが確かめた大切なものって、何ですか?」
「――何だ、藪から棒に…」
「大切なもの、確かめられました?」
「?」
「大切なものは、確かでしたか?」
 確かなものでしたか?
 そんなことを言って、彼女は真っ直ぐに彼の目を見据える。
 普段の彼女からは信じられないほど無表情で、そして透明とすら感じられるほどの、奥に隠されたものが分からない瞳。
「確かなものだったか、ってのはよくわからないが…」
 腕を組んで少し考える素振りを見せて。彼は少し微笑んで続けた。
「俺にとってそれが大切なのは確かだったよ」
「どうしてわかるんですか?」
「…それを好きだと思うのは、俺自身の問題だから」
「……」
「ていうか、訊くなよ」
「………」
「―あんたは、分かってて欲しいと思った」
 照れを隠すように無粋な顔をして見せると、彼女は眉をひそめた。
「………私を、好きだと…言うんですか」



 それは拒絶か、否定か。

 好きだと言う、とても大事なその言葉に。
 彼女はすべては間違いだと首を振った。







 つかつかと彼女が歩み寄り、彼が後ずさる。
 彼の腰が机に当たりガタンと音を立て、そこに一瞬を目線をやった瞬間。
 彼女が彼の肩に掴み掛かり、思い切り押し倒した。
「――ッ!!」
 机の淵に頭をぶつけ、痛みを堪えながらそこに手をやろうとすると、彼女がその手を掴む。
「はい動かないでくださいね〜」
 両手を掴み、そのまま彼を後ろ手で机の脚に回させた。身体が密着し、ふわりと揺れた彼女の髪が香って、すると不意に彼に焦りが芽生える。
「おい、何のつもりだ! 離れろ!」
「離れろ、はひどいですよ」
 彼女が能天気に笑ったと同時に。がちゃりと錠が鳴った。
「…は?」
「鳴海さんがラザフォードさんに使ったのを取っておいて良かったですねぇ」
「……何が良かったんだ」
 ジャラリと軽い音で、後ろ手を縛る手錠の鎖が鳴った。
「うーん、他に縛るものがないので腕だけですが」
 疑問符と焦燥をあらわにして自分を見詰める彼を見ながら、彼女が首を傾げる。
「何考えてんだ、あんたは…冗談はやめろ」
 冗談で、こんなことをするな。
 心からそう思う。諌めるというよりも請う眼差しで彼女を見るが、彼女は一向に目を合わせようとしない。
「ま、いいですね。まさかか弱い女の子を蹴るなんてこと、しないですよね」
「話を聞け! 一体何がしたいんだ」
「鳴海さんが喜ぶことですよ」
「じゃあこれを外せ」
「却下です」
「……」
「大丈夫ですよ。おねーさんと決別したばかりで、温もり不足モードな鳴海さんを慰めてあげようかと思ってるだけです」
「あんたを代わりにするほど困ってない」
「あら、それは残念」
 くすりと彼女が笑い、そして眉を寄せる。その顔が一瞬だけ泣きそうに歪んだのを捉え、彼の心臓がどくんと波打った。



 彼の制止の声を一切聞かず、彼女は彼の腰元に蹲り、ベルトを外しに掛かった。
『温もり不足モードな鳴海さんを慰めてあげようかと』
 一般的にそうするだけに必要だと思われる最小限の行為。
 その一連の動作は、彼にとって。絶望的なほど、眩暈がするほど滑らかに流れた。

 彼女が首を上下に揺らして、屹立した彼自身の輪郭をなぞるように舌を這わせる。根元から舐め上げて何度か往復させ、先端の鈴口に辿り着くと舌を尖らせて窪みを広げるように突く。ゆるゆると透明な先走りが溢れてくると、口を大きく開けて一気に咥えこんだ。
「っ、く…ッ!」
 頭上で彼が呻き、びくりと腰が震えた。
 口内で更に硬く膨れ上がった欲望に喉を叩かれ、咽そうになり生理的な涙が滲むが、無視する。その涙が屹立した欲望の先端から絶えず流れてくる透明の雫と一緒に彼女の頬を濡らした。
 そしてそれを奥まで咥え込み、唇で扱きながら舌を這わせる。先端の鈴口を舌先で舐り、亀頭を舌と上顎で挟んで擦りながら強く吸うと、どくりとそれが脈を打った感触が唇に伝わってきた。
「おいっ…も、やめ…っ!」
 彼が喉の奥でか細く声をあげる。決して与えられるのではなく、強いられる刺激に耐えることと、そして今現在の己の状態を考えることで羞恥で神経が焼き切れそうになる。
 しかし彼女の指と舌は着実に彼を追い詰め、覆うことの出来ない耳から飛び込んでくる彼女の息遣いと水音に。感覚は更に昇り詰め、断続的に腰が震えはじめる。
「…そろそろ、ですか? 良いですよ、出しちゃって」
「…、たのむから、本当に…やめ、」

 俺はなにをしてるんだ。
 こいつは、何をしてるんだ。

 彼女の真意が、全く理解できない。
 これは愛を求めている行為なんかでは決してないはずだ。
 彼が自らを諦めそうになったとき、真っ先にそれを諌めてきた彼女が、どうしてこんな投げやりな様子でこんなことをしているのか。
 分からないのに。けれど本当は自分はその答を指先にかけているのかもしれない。
 そんなことを考えて、胸の奥が冷たい悲しみで溢れそうになったとき。
 彼女の舌が与えてきた刺激が、凝る熱を解放させるように一気に感覚を責め立てた。
「…ッ、!―――」
 目蓋の裏が白く閃き、意識が薄らぐような快感の波が押し寄せる。喉の奥で嬌声を必死に飲み込んだ。
 断続的に腰が震えるのと同時に吐き出された白濁と、腰元でそれを彼女が飲み込む気配がして一気に絶望的な気分になる。が、そのことについて突っ込む気力はもうない。
 どっと降ってきた疲弊と倦怠感と戦いながら弾む息を整え、しばらく彼の息遣いだけが部屋に響いた。
 彼女は何も言わない。
 呼吸が落ち着いてきた頃、少しも乱れていない彼女の服を視界の端で見ながら彼が沈黙を破る。
「…、あんたまさか、これで満足する気か」
「これでって…まぁ、これで満足していただかないと」
 これ以上は要求されても困りますねぇ、と笑う。相変わらずの全く困っていないような顔。彼はうんざりした顔でかぶりを振った。
「あんたがどう満足するつもりなんだ、って訊いてるんだ」
「ああ…私は別に」
 既にご馳走さまですから、と言って舌をぺろりと出す。その仕草が普段の彼女からは想像も出来ないほど(今さっきのようなことをされたばかりでも)、扇情的で。彼は眉を寄せた。
 手錠を外せと言うと、彼女は一度首を傾げると存外素直に脇に投げてあった鍵に手を伸ばす。
 この短い間のやりとりの激動で、焼き切れそうな脳を必死に動かして言葉を選んだ。カラカラの喉から必死に言葉を搾り出す。

 とは言え、今の状態で下手な言葉は選択できないにしても、彼女の情況がよく分からない今は選択肢があまりにも無い。
「…続きが、したい」
 結局彼が拗ねるように呟いたのはあまりにも素直な言葉で。
 その言葉に彼女は一瞬目を丸くし、次に少し嬉しそうに笑う。そして最後に無表情に首を振った。
「私に突っ込んだりしたら鳴海さんが汚れますよ」
「…何で今日はそんなに捨て鉢なんだ? あんたらしくないんじゃないか」
「私らしくないですか?」
「ああ」
 嘆息混じりに言う。すると彼女の顔が再び曇った。
「…私の名前も知らないくせに」
 目を逸らしながらかすれた声で吐き出された言葉。
「……」
 ああ、やっぱり。
 さっきからずっと自分の中に渦巻く感情の名前は。
 恐らく彼女の中にも渦巻いているだろうものも同じ。
 悲しみ、なんだろう。

 その理由を尋ねれば、彼女はきっとまた悲しげな顔で俯くだろうことは明らかで。
 想いを寄せる相手には、できれば笑っていて欲しいものだけれど。
 今の自分と彼女には、必要なことなんだと思う。
 どんな言葉をも、交わすことが。
 相手から流れてくる、複雑な信号のような心を。読み解こうと触れ合うことが。

 彼女の背中に手を回すと、一瞬だけびくりと震えたが、次の瞬間には彼女はあまりにも力なく胸に身を預けてきた。
 肩口に額をあて、深呼吸して腕に力を入れる。
 彼女の腕は応えない。けれどありがたいことに、逃げもしない。
「あんたがぬくいってことは知ってるよ」
「……鳴海さんだってちゃんと熱いですよ」
「そうじゃなくてだな」
 はぁ、と嘆息をひとつ。
 この場に及んで、彼女はまだ目を背け続けている。何かから。
「……」
「前も、こうしたことがあったろ」
「……」
「忘れたかな、あんたは」
「……忘れてないです」
 彼女を抱き締める腕。
 出逢ったばかりの頃、あんなに頼りなかったはずの腕が。
 自らの中に確固たるものを見つけられず、躊躇いと諦めばかりで何をもしっかりとは掴むことの出来なかった、彼のこの腕が。
 初めてしっかりと彼女を抱き締めたあの日。
 決戦の前に、彼にとって失ってはならないものを確かめたという、あのとき。
 そのときと同じように、そして今度は初めて自ら逃げるように自分を拒んだ彼女を、離さないように。掴んでいる。
「どうしてあんたで…俺が汚れるなんて」
「だって、…」
「俺を幸せにしたのは あんたなのに」
「…………」
 俺の幸せが、あんたなのに。
 彼女に聞こえないように小さく呟きながら、涙が零れそうになった。
 大事なもの。
 それが、ここにあるものが。
 確かであって欲しいと、願うあまりに。


「…鳴海さん」
「ん?」
「あなたが、揺るぎないのはどうしてですか」
 ぼんやりとした声で尋ねられ、彼女の方に目をやるとしっかりと目が合った。
 そのことにひどく安堵してしまった自分に笑いそうになる。
「……それは、…」
 口を開きかけ、すぐに閉じた。
「今はまだ。…機会があったらまたそのとき訊いてくれ」
 たぶん、近い内に。
 彼はどこか朗らかに言った。


(……やっぱり、あんたは)

 ふと湧き起こり、そして今確信となった真実を。
 今しばらくはそうでなければ良いと真っすぐに願えるように。
 彼は胸の奥深くに仕舞いこんだ。








   終











11/05/24


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