たった一人だけは、殺したら駄目だったんだ。
+スピリチュアル+
「捜して欲しい本があるんですけど」
ゆったりと掛けられた声。浅月はゆっくりと視線を上げた。
「・・・なんで俺が」
目の前には、最早馴染みの顔。結崎ひよのが立っていて。
突っ伏していた上体をだるそうに起こしながら、浅月が無粋な返事をする。しかしそれに動じることもなく、ひよのはにこにこと笑みを浮べながら手をひらひらさせた。
「だって、そこに座ってらっしゃるってことは、図書委員なんでしょう?浅月さん」
さして困ってなどいなさそうな困った顔で、笑いながらひよのが浅月の座っている図書カウンタを指差した。
「委員じゃねえ。・・・代わりだよ。俺のクラスの委員が休みだったんだ」
授業態度で教師に目をつけられてしまい、その罰として面倒な雑務を言い渡されてしまった。逃げ出すことも考えたが、陰険な担任に次にどんな面倒を押し付けられるか分からないので、甘んじて頷いたというわけだ。
「じゃあ図書委員の仕事してくださいよ。本を検索して欲しいんです」
変わらずににこにこと述べてくるひよのに面倒くさそうに頷き、しぶしぶとパソコンに手を伸ばしながら、浅月が何ていう本なんだ?と尋ねた。
「エド・ノルト著の『殺人鬼に救いはあるか、その深層心理に潜む良心』でお願いします」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
渋い本読んでるな、と苦笑しながら浅月が言われた通りの著者とタイトルを打ち込み、検索を開始する。
「・・・あぁ、あった。F棚の3列目だ」
ンな悪趣味な本が本当にあったんか。心の中で呟きながら、浅月が本棚の場所を指差した。
しかし。「・・・」その場所を見ながら、ひよのは動こうとしない。たっぷり五秒はおいた後、浅月が訝しげに眉を寄せた。
「・・・おい?」
「はい?」
「あっちってんだろ。取りにいかねぇのかよ」
「あれ?浅月さんが案内して取ってくださるんじゃないんですか?」
「なんでそこまでしなきゃなんねんだよ」
「図書委員さんのお仕事です」
「そこまで気の利いた仕事なんてあるか!」
「じゃあ顔馴染みのよしみってことで♪」
にっこーと言ってくるひよのに、浅月はうー、と唸った後、頭を掻きながら面倒くさそうに、そりゃあもう心底難儀そうに立ち上がった。
「ったく・・・・・・」
こぼしながらだるそうに歩く浅月の後ろを、勝ち誇ったようなにこにこ顔でちょこちょことひよのがついて歩く。
「・・・・・・」
横目でそんな様子をこっそりと見ながら、ふいに自分の顔に笑みが浮かんでいることに浅月が気付く。慌てて口元を覆う浅月に、ひよのが首を傾げた。
初めて会ったときは、ずっとどうやったら殺してやれるか、そんなことばかりを考えていたのに。
その人を手にかけたこともないきれいな手が、心が憎くて憎くて仕方なかった。
こんな風に接し、こんな風に接される日が来るなど、誰が予想していただろう。
この存在がこんなにも大きくなることなど、誰が予想していただろう。
「ほらよ、コレだろ」
誰も読んでいる人間がいないのか、本はコンピュータで指定された場所そのままに並べられていた。少し埃を被っていたが、それを乱暴に叩き、浅月がひよのに本を手渡した。
「殺人鬼の心理なんて読んでどうすんだよ」
「殺人鬼の心理が知りたくなる、そんな日もあるんですよ」
笑いながらそう言い、礼とともにひよのがちょこんと頭を下げた。
「・・・浅月さん?」
それじゃあ、と言って踵を返したひよのの手を、気が付いたら掴んでいた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「?何か・・・?」
殺人鬼に救いはあるか。
殺人鬼の心理。
人殺しへの興味。
ヒトゴロシへの嫌悪は。
「・・・人殺しに救いなんてあると思ってんのか?」
呟くように問われた言葉に、ひよのが目を丸くし、そしてにこりと笑顔で言った。
「救って欲しいんですか?私は救いがあるなんて思いませんけど」
それは侮蔑の色が含まれているでもない、陰険な影もこもっていない、いつもの笑みだった。
きれいな。ただの。
「救いなんていらねぇよ。救って欲しいなんて思ったこともねえ」
吐き捨てるように言うと、心の中で舌打ちしながら浅月はひよのの細い手首を離した。
「教えてやろうか?人殺しの心理」
浅月の口元が緩やかな弧を描く。笑みと言うにはあまりにも歪んでいるが。
対するひよのは無表情で。底が知れない、というのはこういう顔を言うのだろう。
自分から望んだ。
望んでこの手を血に染めた。
面白かった。どんなに偉ぶっていても、強く傲慢で横暴な人間であっても、簡単に死んでしまう。
この両手さえあれば、人間の首を締められる。右手首ひとつあれば、ナイフで首の頚動脈を掻き切ることができる。人差し指一本あれば、銃の引き金を引ける。
殺してしまえば、それは自分の方が上だったという証明になる。どんなに思い通りにならない人間でも、殺してしまえばその存在すら支配してしまったことになるだろ?
簡単なんだ。踏み込んでしまえば。
大抵の人間はそこに踏み込めずに終わるけれど。
ナイフを握っているとひどく安心した。
暖かな紅い液体を浴びると満たされた気持ちでいっぱいになる。
死んだ人間を目の前に、実感する。自分は生きているのだと。
そして思う。自分は人殺しなのだと。
人間の命を奪うから人殺しなのではない。自分の存在を確かめるために、他人を支配したいがために殺す、だから人殺しなんだ。
望んでそうなった。
すべての人間を手に掛けて支配して手に入れて自分の存在を肯定して。
だから欲しい。
躊躇なく人間を殺してしまえる力と揺るぎない悪の心が。
まだ足りない。
良心の叱咤もすべて聴こえなくなるように、自分のすべてを否定したい。
救われたいなんて戻りたいなんて思わない。止めて欲しいなんて思わない。
救われたいなんて思わない。
だけど。
だから。
邪魔。
何が?
自分が。
こんな自分に簡単に笑みを向けてくる目の前の人間が。
そんな目の前の人間に何か躊躇いに似た感情を抱く自分が。
そんな自分に何も言わない目の前の人間が。
すべてが。
どくん。
心臓が大きく波打った。
目の前が紅い。
手には濡れた感触。
目の前に横たわる見慣れた制服に包まれた身体。
そばに転がる光を放つナイフ。
池だ。
目が痛い。
浅月は血塗れた手で目を覆った。目元が紅く染められるのも気に掛けず。
安心するんだろ?
すべて支配した気分になるんだろ?
きれいごとで自分をい不快にする人間が消えた。
殺した。消した。否定した。
自分は生きているという証明ができただろ?
人殺しの自分なんてこんなことでしか存在できないんだから。
頭の中が真っ赤に染まり、次に白昼夢にも似た白い感覚。
そして、暗転。
空気が喉を吹き抜け、心臓から頭に、身体中を冷たい血液が駆け巡る。
喉から悲鳴に似た叫びが飛び出そうになったとき、怒声が静寂の空間に響き渡った。
「浅月!!!!!!」
「・・・・・・鳴海弟か」
ゆっくりと振り向くと、そこにはいつもひよのと共にいた歩が。
そしてその後ろに、信じられない、といった面持ちの理緒と亮子が呆然と立ち尽くしていて。
「理緒に・・・亮子も」
「香介・・・」
「こーすけ君・・・・・・」
血の池に横たわるひよのの傍に座り込み、歩が呆然とその動かない身体を見つめる。
浅月も、理緒も、亮子も、そして歩も。
誰も動かない。
「・・・・・・なぁ、理緒」
「・・・・・・・・・なに?」
どこか上の空の声で問い掛ける浅月に、理緒ができるだけ平静に返す。
「俺達は人殺しなんだ」
「・・・分かってるよ」
理緒の言葉に、浅月がふ、と薄く微笑んだ。
「人間を殺すことでしか、存在できない。本当は存在してはいけないのかも知れねえ」
「・・・・・・うん」
「でも、俺は、自分の存在を否定することもできねえんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・うん」
ぽたり、と。一滴の涙が、理緒の頬を伝った。
そんな様子を見て、浅月が自嘲めいた笑みのまま、続けた。自分じゃない者の血で紅く染まった拳を握り締めながら。
「殺したことを後悔してるわけじゃねえ。なのになんでかな。嬢ちゃんだけは、殺したら駄目だったって気がすんだ」
眩しくてきれいなものと、汚れてしまった闇のものは相容れない。
けれど、歩み寄ることはできたかもしれない。
それができたはずだったかもしれない。
自分はそうしたかったかもしれない。
けど。
もう 遅い。
喉を灼けるように熱い風が吹きぬけた。
「・・・浅月、おい、浅月!!!」
「!!」
怒鳴り声に飛び起きる。
視線を上げると、担任が呆れ顔で自分を見下ろしていた。周りではクスクスと笑い声が上がっていて。
そこは自分の教室で。六校時、大嫌いな担任の現国の授業で。いつも変わらない眠気を誘う授業に、どうやら机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
「・・・・・・夢だったのか」
安堵の溜め息を吐きながら、浅月が頭を掻いた。
そんな様子に担任がぴし、とこめかみに青筋を立てて。
「ほぉう。随分良いご身分だな、浅月」
「いや・・・それほどでも」
「そんなご大層な身分のお前には、相応の待遇をしないとな。お前、この後今日休んでる図書委員の三上の代理で行って来いよ」
「げっ!!なんで俺が・・・・・・」
「ほぉう?」
「・・・分かったよ、分かりましたよ!」
雑用を押し付けられてしまったのには腹が立つが、今はさっきのが夢であったことへの安心で頭がいっぱいだった。
殺して、しまったことが夢だったことがどうして安心なのかは分からないが。とりあえず、『彼女』を殺したという事実はなかったようで。それだけで今は十分だ。
授業、簡単なホームルームが終わると、浅月はだるい体を引きずって図書室へ向かった。
こんな気分のときはとりあえず早く行って早く済ませてしまうのが一番だ。
ところが。
言い渡された仕事は思ったよりずっと時間が掛かりそうな仕事。カウンタの係だ。
本を借返したいという生徒がいる限り終わらない、そんな気の遠くなる仕事をにこにこ顔で任せてくれた図書司書の教師の後姿を一瞥し、浅月はしぶしぶカウンタに座った。
背もたれに身を預け、夢のことを思い返してみる。
「・・・なんで・・・あの嬢ちゃんを殺したくねえんだ・・・?」
前はずっと考えてたのに。こんないけ好かない生意気なガキ、殺してやりたいと。
けれど、殺してしまったことが夢であったということに感じた例えようのない安堵感。
わからない。わからないが、彼女を殺してしまったときの言いようのない不快感、それは恐怖にも似た。
「・・・まぁいいや。何にせよ、夢でよかったぜ・・・・・・」
机に突っ伏し、もう一度嘆息して目を閉じたとき。
もはや耳に馴染んだゆったりとした声が掛けられた。
「捜して欲しい本があるんですけど」
ENDLESS
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