その名前を呼んで行くのは











     名














 気付いたのはふとしたことから。


「ねー吾代さん、一生のお願いご飯奢って!」
 事務所のドアを開いて吾代の姿を認めた途端、単刀直入に言い切って両手を合わせた。
 そんな弥子に、吾代も分かり易くすぐにこめかみに青筋を立て反応する。
「馬ッ鹿かてめーは!藪から棒に!」
「だってお腹空いてるの!」
「大層な理由だなオイ」
「お腹空いてるんだけどお金も無くて…でも家に帰るまで我慢できそうにないしこのままじゃ餓死しそうなの」
「知るか。大体なんで俺に言うんだよ、あの助手にタカりゃ良いだろ」
「ネウロにタカるなんて…吾代さん私に死ねって言ってるの?」
「さーな俺が知るかよ。あの化け物にタカって死ぬか餓死するかどっちか選べ」
「うぅっ…ひどい吾代さん……」
 最後の手段である泣き落としも通用せず(半ば本気の涙だったが)、ガックリと肩を落として事務所を後にする。

「ネウロにたかるなんて本当ありえないよ…奇跡が起こって奢ってくれとしても後でどんな見返りを要求されるか分かったもんじゃない…」
 ブツブツと独りごちながら自宅に帰る途中。

 ふと気付いた事実。


「ネウロ……って、」




 気付いた途端、何故か言いたくなってしまった。
 何故だか言わずにはいられなくて、踵を返して今度は探偵事務所への道を進み始める。





「ネウロっ、」
「何だ、奴隷が呼ばれもせずに」
「うわぁ早速ひどい言われようだ! …あのさ、ネウロってさ」




 何故だか今になって気が付いたこと。
 自覚した途端に言わずにはいられなくなったこと。
 何故だか胸が逸った。


「ネウロって名前、呼ぶの私だけだよね」


「………?」
「考えてみたらさ、みんなあんたを呼ぶとき『助手』とか『化け物』で ちゃんと『ネウロ』って名前を呼ぶのは私だけなんだよね」
「それがどうかしたか?」
「ただなんとなくそう思っただけなんだけどねー。 考えたらなかなか凄いことだなって思ったのよ、私がネウロの名前を呼ぶから、ネウロに名前がついてる意味があるわけでしょ」
「…ほう。 つまり貴様だけが我が輩の名を呼んでいるゆえに、我が輩の名の存在を支配しているということか」
「…いや、そこまで深くは…」


 ただ何となく考え付いて、面白いと思っただけ。
 それを伝えることでこの魔人が何を思うか、そう思うと面白いと思っただけだから。
 その面白いと感じた『なんとなく』を説明されても困るのだけど。




「名前があるのに呼ばれないって寂しいじゃない? その点私が呼んでるからヨカッタネ!て 話?」
 何気なく感じ、ただ衝動的に言ってみただけのことに真面目に反応されて途端に居心地が悪くなる。
 無理やり結論付けて煙に巻いてしまおうと試みたが見事に失敗した。

 魔人は深々と腰掛けていた椅子から立ち上がってまで話に乗り出して来てしまったのだ。
「なかなか面白い考えだな」
「そ、それはどうも……」
「そうか、名は単なる固有名詞である以前に、誰かがそれを口にするからこそ存在の意味があるのか」
 長いコンパスで部屋を闊歩しながら魔人は一人で考えを展開させる。ここまで来たらわざわざ家に帰るのをやめてここに来たことを後悔するのみだ。
「や、そこまで考えなくても…」
「貴様の名は我が輩だけが呼ぶものではないのが非常に残念だな」
「………」
「だがまぁ、貴様を奴隷として支配しているのは我が輩だから良いとしよう、ヤコよ」
「……!」
 得意気に語る魔人の声にはっと息を呑む。

 先程と同様、今まで気付かなかったこと。




『ヤコ』





「………」

 ああ、私の名前は誰もが呼ぶのに。


 この魔人は 誰よりも上手に私の名前を。




 少しだけ悔しくなって、もう一度彼の名前を呼んだ。


「ネウロ」



 彼は返事をせず、ただ口の端を持ち上げただけで微笑った。




















  終







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07/10/06


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