そんな日は
 涙が止まらない。





  +ルーシー+




 急に屋上へと行きたくなった。


 静まり返ったトラン城内はひっそりと、小さな泣き声を上げている。

 今日もまた、軍主の手にした紋章によって彼が不幸になった。
「・・・」
 今回は親友だっけ。
 ルックは心の中で小さく呟いた。


 幼い頃からの
 短くも長い時間を共に過ごし
 悲しみも楽しみも分け合ってきた親友。


「・・・・・・」
 屋上へ行こうか。
 どよんとよどんだ空気の流れているホールを見回し、嘆息すると、ルックはゆっくりと石板の元から離れた。



 屋上へと踏み入れた途端、その足がぴた、と止まる。

 先客がいた。

 赤の装束に若草のバンダナ。
 暗くとも、すぐに分かる。

 戻ろうか近付こうか、と、そんなことを考えながらも、ルックは翠の目を細めて軍主の様子をこっそりと伺った。


 大切なものを失ったあのとき。彼は泣いていなかったけれど。


 ぼんやりとそう考えていて、ルックは目を少しだけ見開いた。

 嗚咽が聞こえる。
 小さな小さな、押し殺したような。

 湖を見下ろすように、手すりにもたれてあちら側に項垂れている軍主の肩は、すこし震えているようで。

 ・・・・・・泣いてる。

 まぁ、それはそうだ。
 ただひとりの親友を自分の一部によって奪われてしまったのだから。

 戻ろうか
 と、そう思いはしたのだが、なんだかそうすると後味の悪いような気がして、ルックは無意識に軍主の元へと足を進めて行った。

「・・・・・・エンジュ」

 エンジュは反応を示さなかった。
 しかし彼のことだから。ルックの存在に気付いてはいたはずである。
 ルックはそのまま彼の隣に並び、手すり越しに湖を見下ろした。


「全部捨て去ることができたらいいのに」
 ぽつりと呟かれた透明な声。
 ルックは視線を一瞬だけ、エンジュに移した。

「本当に必要で大事なもの以外は、全部なくしてしまえたらいいんだ。」

 哀しみも
 憎しみも。

 楽しさでも後にやってくるのは哀しみだから

 きっとすべてはこの胸を焦がすいらないものばかり。


「本当に大事なものってなんなの」
 ルックは視線を無音の湖へと向けたまま、抑揚のない声で言った。
 エンジュはその言葉に、きょとんと目を丸くし、しばらく考えた後、肩を竦めて言った。
「・・・きっと、ぼくにとってぼく以外のすべてのものは必要ないし」

 だからぼく以外のすべてのものにとってぼくは必要ない。
 きっと。


「・・・」
 ルックは目を閉じた。
 自嘲混じりの言葉。

 不愉快でもないし、哀しみでも怒りでもない。
 胸にあるのは、静寂だけ。

 風が軋んだような音を立てたのが、ルックの耳にやけに響いた。

「持っているまわりのもの、全部持っててはじめて、きみだろ」
「え?」
「きみにとって自分が必要なものなら、きみを形成してるもの全部必要なんじゃないの」

 ルックはそう言うと、エンジュの手を引いて歩き出した。
「・・・ルック?」
 握られた手に込められている力は弱い。
「・・・・・・」
 振り払えばすぐに離れられるほどに、とても弱い。
 それが少しだけ残念な気がして、エンジュは一人苦笑した。

 ルックに連れられてきた場所といえば、彼がいつもいる中央ホールの石板の前だった。
「きみは最近あんまり見てないようだから」
 ルックがそう言ってコン、と冷たい石を軽く叩いた。
「・・・?」
 主旨が掴めず、エンジュはただ促されるままに石板に連なった名前を見た。
「・・・」

「・・・・・・・・・」
「増えてるだろ」

 確かに
 石板に刻まれた星は増えていて。
 前までとてもちっぽけなものであった意思が
 少しずつ少しずつ
 集まって 巨大なものとなっていて。


「・・・・・・」
 なにか言おうとしたのだが、なぜかエンジュの喉からはひゅう、と風が通り抜けただけで。
 そんな様子を見て、ルックが嘆息混じりに言った。

「きみに必要ないものって、なんだろうね」


 ルックは再び風に当たるために屋上へと足を向けた。
 今度は 風の泣き声も聴こえてこないだろう。





 ルックの足音が少しずつ遠くなっていくのを聴いて。
 エンジュはその場にしゃがみこんで、両膝に顔をうずめた。







 終


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