そんなの いらない。





  +空の卵+




「ルックってさ、飛べたりするの?」

「・・・は?」
 突然掛けられた問い。
 ルックは本に下ろされていた視線を反射的に期待に満ちた黒い目に移した。
「なにいってんの」
「だからホラ、風の紋章を使ってさぁ」
 エンジュがわくわくとしながら笑顔を満面に浮かべている。

 何を期待してるんだろう。
 訝しく思いながら、ルックは視線だけを上に向け、そしてすぐに下ろした。
「できるんだろうね」
 とたんにエンジュの顔がぱあっと輝いた。
 その顔にルックは肩を竦め、嘆息するとすぐに付け足した。
「でも飛ばないよ」
「えぇ〜」
 とたんにエンジュががくーんと肩を落とす。
 なかなか面白い。
 やはり子どもなだけに、この解放軍軍主殿は表情がころころと変わる。
 ・・・といっても、ルックと同じくらいの年だったりするのだが。

「なんで?なんで飛ばないの?」
「さあね。飛べるからだろ」
 嘆息混じりに肩を竦める。
 そっけのないその答えに、エンジュは納得いかないようで。

「?どういう事??」
「・・・じゃあ。そういうきみはどうして飛びたいの」
 抑揚の無い声で静かに問う。
 気だるさをいっぱいに出した返事でも、なかなかのツワモノであるエンジュは気にしない。
「・・・・・・・・・飛べないからかな?」
「同じじゃない?」
 口の端を持ち上げただけの笑いを浮かべ、肩を竦める。
 これで終わるかと思ったのだが。
 これで読書に戻れると思ったのだが。

「そうかなー」

 そうはいかないようだ。


「・・・そうだよ。きみだって、飛びたいと思うのは今だけ。もうしばらくしたらきっと飛ぼうと思う事なんてなくなるよ」
「そっかなー?違うと思うよ。だってこんなにも空を飛んでみたいと思ってるのに?」
 そう言ってエンジュは細い両腕を空に向かって広げた。

 ここ、トランの湖が見渡せる屋上はルックの行き着けの場所で。
 ルックは石板の前にいる以外は、たいていここで読書をしていた。
 それがどうやらこの軍主であるエンジュに勘付かれたらしく。
 事あるごとに構ってこられるのだった。

「この地べたの上だけで相当てこずってるきみが、空を?なに、現実逃避?」
「なんでそういう言い方するかなー」
 嘲笑めいた声で言うルックに顔を膨らませながら、エンジュが天を仰いだ。
「自分が知らないものとか、見たことない景色とか持ってないものに憧れたりするのは当然だろ?」
「さあね」
 ルックは肩を竦めた。
 そして頭の中で何を創造しているのか、天を仰いだまま戻らないエンジュを見て、少しだけ首を傾げた。

 きっと、同じ二つの目でも。

 エンジュの黒の目と、ルックの翠の目。

 違っているのは、色やかたちだけじゃあ
 ないんだろうな、と思った。

 その双眸ではこの世界がどんな風に見えているのか。
 そんな興味が自分の中で湧いてこようとしたのを、ルックは頭を振って制した。
 自分のこの目だけでも精一杯なのに。

 そもそも自分の目にはこの世界がどんな風に映っているのか。
 それすらもよく分かってないのに。

 そんな事を思うのはないものねだりだ。
 できない事は望まない。


「きみもいつか分かるよ」

 今自分がどんなに望んだ事でも、欲したものでも。今持っていないものでも、何でも。

 いざ手に入れてみると、それはいっきに いらないものに変わる。


「そうかなぁ」

 エンジュは視線を下ろし、心底残念そうなものへと変えると、ぽつりと呟いた。
 そしてまたゆっくりと未練そうに晴天を見上げると、言った。


「違うと思うんだけどなぁ」


 ルックの翠の目に、そんなエンジュの空を乞うような黒の瞳が焼き付いた。

 違うと思う?

 まぁ、ぼくも思うよ。


 そうだったらいいのに
 って。









「あの時の会話、憶えてる?」
「・・・まあ」

 あれから、何を手に入れた?
 それ、いらなくなったんじゃない?


「ルック、当たってるかも」
「なにを手にしたの」
 自嘲ぎみに言うエンジュに、また嘲るような口調でルックが問う。

「まえのぼくが持ってないもの、たくさん」
 人を殺す力とか。
 時間がとまった身体とか。

 手に入れたのはこの二つなんだけど、なんだかそれだけとは思えないほど
 いろんな事がありすぎたような
 気がする。

「いらなくなった?」
「・・・・・・・・・・・・」
 答える代わりに、エンジュが微かに笑った。




 ほら、言った通り。
 飛ぼうなんて想う事もなくなったでしょ?

 今はこの地べたで起こっている自分の事に手いっぱい。
 空を乞う余裕なんかないんだよ。



 その足の重りが 外れない内はね。



 それを外すのは力じゃない。
 だからきみが持っている力なんて役に立たない。
 だからいらないと思うんだよ。

 外してくれる何かを望むのは


 ほら あれだろ?
 ないものねだり。








 ルックの翠の目と、エンジュの黒の目。
 それぞれの双眸は、色やかたちは違っていても。

 見えている世界は、たぶん同じ。








 終


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