この痛みをくれるのがあなただけなら
 その痛みを傍でずっと与え続けてくれると約束してくれるのなら
 それを至上の幸福だと思えるのだけど





                                この痛みから救って







 目に見えているものには幾つか種類がある。
 見る気などなくても、情報として視界に入り込んでくるもの。
 見ようと意識しているからこそ見ることの叶う、或いは便宜上「見える」と呼んでいるだけの、無形の感情や事象といったもの。
 そして見るつもりなどなくとも、感情がそれを視界から外すことを許さないもの。
 剣を握り敵へと駆け出す瞬間、少年の視界の端が金糸のような髪がなびくのを捉えた。


「どうした?最近、戦闘に身が入っていない」
 慣れた所作で剣を鞘に収めながら、男が無表情に問うた。
「いえ、その……すみません」
 一瞬言葉を選んだが、結局少年は一番シンプルな謝罪の言葉を述べる。 男が嘆息し、謝られても仕方無いがと言った。
「バロンが近くなって、浮き足立っているのは解るがな」
「……」
「だからこそ油断は大敵だ。 家族の元へ元気に帰りたいなら、気を抜くなよ」
「…はい」
 違う、と言ってみようか。 そう考えたが何も言わずに少年は頷き、歩く先を眺めた。 森を抜け、一つ山を越えればバロンに到着する。
 両親や城の人間、単純にバロンという地への懐郷の念は、「恋しい」と呼ぶに相応しい形で胸を締め付ける。 自分一人を残し壊滅してしまった赤き翼のことも、考えるだけでえも言われぬほどの痛みが脳内に蘇るのだ。 少年は赤き翼の最後の一員。 生還を託され、それ以上にバロンに在ることを望まれた身。 だからこそ、早くバロンに帰らねばと言う思いは強く深い。 ただバロンの王子として、という想いならば未だその強度は低く。 バロンへの逸る想いは"国を想う"というものとは少し違う、だからこそそんな自分への疑念すら残したままだけれど。
 けれど早くバロンに帰り着きたいと思う反面、バロンに着いてしまえば、隣を歩くこの男との旅路も終わるのだと思うと別の感慨が湧いて来る。

 男と初めて対面したときは、彼は少年にとっての命の恩人。 そして目的地が同じだからという理由だけで少年の同行を許してくれた。
 明らかに男一人だけであった方が迅速に進めたであろう道程。 彼は少年のペースに合わせて歩幅を変えることはしなかったが、時には立ち止まり横に並ぶのを待っていてくれることもあった。
 心細さと、心許なさが勝って男の後ろをついて歩くことを決めた少年も、短い旅路の間に男から学んだ生きる力により逞しくなっている。 少なくとも、赤き翼で初めてバロンを飛び立った頃よりは。
 だから今となっては、男に依存するでもなくバロンへ一人で凱旋することは可能であっただろう。 しかしそうせずに男の隣を歩き続け、そしてバロンに到着してしまえばこの旅路が終わってしまうことに対し寂しさとも言える感慨を抱くほどには、少年には男に対する名前付きの感情の自覚があった。 そしてその感情の源泉の正体。 その源泉の深さ、流れる水の勢い。 最近はそんなことばかりに気を取られている。

 素性の知れない、けれど男が纏っているのは決して赤の他人とは思えないだけの雰囲気。 自身の父母と同じ年くらいであろうか。 父母も国では随一と言われるほどの美男美女と呼ばれていたが、彼も決して引けをとらないほどの端正な顔立ちをしていると思う。
 金の髪は煌びやかに風になびき、憂いを帯びた蒼の目は全てを見透かすように深い。
 出逢った頃は、少年はこんな風に彼を横から見上げながら不躾なほどにまじまじと観察していたのだけれど。 それが次第に見惚れるように男の立ち居姿を目で追うようになり、そうして今ではばちと目が合うだけで心臓が飛び上がるほどに脈打ち、とても直視出来なくなっている。
(…僕は、どうしちゃったんだろう)
 理由など解り切っている問いを他人事のようにしてみる。
 そう、その想いは既に自覚していた。
 圧倒的な剣技で自分を守ってくれたことだけでなく、心細かった自分の隣にいてくれたことだけでなく。 理由などもうとっくに通り過ぎて眼前でなく後ろに置き去りにしてしまっているほどに、どうしようもなくただ惹かれてしまっているのだ。

 そして戦闘中であることも忘れ、敵に向かい颯爽と武器を振るう男の背中を眺めていると、ふと少年を振り返った男がぎょっと顔を強張らせて少年の名を叫んだ。
「セオドア!!」
「えっ――」
 後ろへの注意を怠っていたと気付いた瞬間には遅く、振り返った少年の右頬から首筋に掛けて灼熱感が走った。 一瞬で目の奥に火花が散り、3メートルほど横に飛ばされる。
 撃たれる瞬間に反射的に地を蹴っていたこともあり、大袈裟に飛ばされはしたもののダメージはさほど無い。
「セオドア!」
 すぐに自分の目の前の敵を薙ぎ、男が走り寄って来る。 立ち上がらない少年と、尚も襲い掛かろうとする敵の間に立ちはだかり、左手に握る剣で一閃した。
「…大丈夫か」
 心配と言うよりは、戦闘の最中で油断していたことへの非難であろう、眉を寄せながら男が少年の前に立つ。 銀に光る剣から敵の血を拭い、鞘に収めた。
 その様子をぼんやりと眺めながら立ち上がろうとしない少年に、「?」男が首を傾げて視線を合わせるように屈んだ。
「…セオドア?」
「………」
 視界が回る。 それが最も感覚の大部分を占めた。
 声を出そうとしたが身体が自分のものではないかのように力が入らない。 すぐ目の前に居るはずの男の姿が像を結ばず、段々と遠くなって行く感覚。
「――混乱か」
 先ほどセオドアを撃ち、そして男が一薙ぎした敵の死体。 振り返ってそれがラミアであることを確認し、男が舌打ちした。
「…少し待っていろ」
 男が少年の前に片膝をついて、鞄の蓋を開けた。 少年はその場に膝を伸ばして座り、動かない思考でそれを呆然と眺めている。

 回る視界。 視界にあるはずの像は結ばれず、変わりに少年の脳内の感情と呼ぶべき無形の思考がふつふつと像を結び、消えていく。
 炎上する赤き翼。 無力な己。 墜落した船と血の海。 未だ現状の知れぬバロン。 両親や城の人間達。 それはしっかりとした思考ではなく、少年の脳内にこびり付いて忘れることの許されない最下層の意識。
 そして次に浮かんでくるのは常に自分の目の前に立ち、金糸の髪をなびかせて颯爽と歩く男の姿。 少ない言葉で語り、少ない動作でその人格を示し、そうして本当に時々、寂しげに微笑う。
 それだけの意識。 そしてそれが回る。 巡る。
 うつろう焦点がやがてゆっくりと合い始め、目の前にいる男が像を結ぶ。 久し振りに顔を正面から見たなというぼんやりとした声が頭の片隅で聞こえた。 深い蒼の瞳と形の良い眉と頬から首筋に掛けての滑らかなラインに張り付く金の髪。 そしていつも通りの、どくんと波打つ心臓。 段々と血が熱くなって来る。

 自身の鞄を漁り、回復薬が無いことを悟ると男が嘆息した。
「…無いな。 万能薬はおまえの鞄だったか…―――ッ!?」
 男が視線を鞄から少年に向けた瞬間。 少年が男に正面から飛び掛かった。 片膝をついた姿勢で油断していた男は不意の少年の行動に対処出来ずに後ろに押し倒される。
「セオドア、…!?」
 腕を伸ばして押し退けようとした瞬間、少年と目が合い、その目が孕む感情が男の脳に突き刺さって来た気がして。 一瞬身体が固まる。
 そしてその瞬間をつくように首筋に鋭い痛みが走った。
「ぐッ…!」
 突き刺さる痛みに眉を顰める。 無造作に掴まれたためにマントが解け、露わになった首筋と肩口の間に少年が噛み付いて来たのだ。
 ずぶりと歯が皮膚を裂き、肉に喰らい付こうとする瞬間。
 男が少年の背から肩に腕を回し、全体重を掛けて体勢を逆転させた。 地面に少年の背中ごと叩き付けるのと同時に、肩口から少年の口が離れる。 受け身が取れずに後頭部を打ち付けたようで、少年はそのまま気を失った。
 しばらく少年を押し倒したままの体勢で、少年がただ気を失っているだけであることを確認してからゆっくりと離れる。
「……万能薬を…使う手間が省けたな」
 はぁと男が深く嘆息した。
 そして少年に噛まれた箇所から血が滲み出ているのを確認し眉を寄せる。 動物と違い鋭い歯を持っていない人間に噛み付かれるのは余計に痛い。 ただそれよりも、混乱の起こした行動とは言え、自身に覆い被さって来た際の少年の目が強く脳裏に焼き付いていた。
 どうして、あんな目を。
 混乱している人間特有の、焦点の合わずに視点の奥で思考が渦を巻いているような目ではなかった。 そう、あの目の奥にあったのは、言うなれば情念。
「……まさか、な」
 そんなのは馬鹿げている。 湧いて来た自身の考えをすぐに嘲笑し、男は首を振った。


 少年が目を覚ます頃には、陽もすっかり傾き、野営の準備が済まされていた。
 がばと起き上がり、慌てて辺りを見渡す。 テントを張りロープを杭に結び付けている男を見止め、慌てて駆け寄る。
「あ、あの!!」
「目を覚ましたか。 頭を打ったんだ、あまり急に動くな」
「あの、僕、あれから…」
「別に問題ない。 前から言っているが戦闘中に気を抜くなよ」
「……」
 男はあくまで淡々と、普段通りの無表情だった。 ただ野営中は普段羽織っているマントを外し寛げている襟元から、包帯のような白い物が見えているのを見つけ、少年が怪我をしたんですかと問う。
「怪我をしたなら僕に治させてください」
「…いや、その必要はない。 ただのかすり傷だ」
 本当はそれ以上に言及し、少しでも怪我をしたのであれば回復魔法を唱えさせて欲しかったのだけれど。 前もって注意されていたにも関わらず戦闘中に油断し、負傷して気を失ってしまったという失態を思えば今は男に対して何も言えなかった。

「…この分だと、明日か明後日にはバロンに着けるな」
「そう…ですね」
 焚き火を挟んで食事を取る最中。 少年が予想外に気落ちした口調で返事をしたので、男が疑問符を浮かべる。
「嬉しくないのか」
「い、いえ!勿論、早くバロンに帰りたいって気持ちはあります。 でも…」
「…」
「僕はバロンに帰ることが目的ですが、…あなたは違うんですよね」
「…まぁ、ひとまずはバロンに用があるが…、最終的にはそうなるな」
「…それが、少し……」
「…………」
 歯切れの悪い少年の言葉。 その先に続く言葉を促して良いのか計りかね、男が眉を寄せる。
 そして数秒の沈黙後、少年は何でもないですと明るく言って顔を上げた。
「バロンに着いたら、まず両親に会ってくださいね!両親からもあなたにお礼を言って貰いますから」
「…いや、その必要はない」
「だってこんなに助けてもらってるのに」
「別におまえのためじゃないからな」
 そう、以前にも言われた。 おまえのためではない・と。 けれどそんなはずは無いと言って良いほどには男は少年を助け、護り世話している。
 若いどころか幼く、肉体的にも精神的にも未熟な少年に対しても容赦の無い男だが、言動の端々に少年に対する気遣いが浮かんでおり、そしてそれは少年に対してというよりも彼自身の性格が言動に滲み出ているのだと、短い旅路の最中で少年は理解していた。 そう、そこにも惹かれているのだから。


 そうして辿り着いたバロンは、少年の記憶とはまるで違っていた。
 城下町には見覚えの無い兵が民を見張るかのように待機しており、あちこちの家屋は扉が固く閉ざされ、シドに会うことも叶わなかった。 何より打ちひしがれたのは、水路を抜けやっとの思いで潜り込んだ、バロン城が蛻の殻になっていたこと。
 そして城に同行し、はじめて少年の両親の名を訊いた男に父母の名前を告げると、これまでに見たことのないような驚愕した表情をしていた。
 特に意図があって少年がバロンの王子であると黙っていたつもりはないが、それ以上に「バロンの国王と王妃」という肩書き以外の意味で男は両親を知っているような風だった。 勿論確かめはしなかったけれど。
 これまで両親との繋がりでしか人間に出逢ったことの無かった少年にとって、男は初めて自分自身が一人の人間として縁を結んだ人間だった。 名前など一切の素性を隠している男だが、それも含めた彼自身を知っているのは自分自身でありたかったから。
 男と手分けして城内を散策している間、誰も居ない城で両親への心配と、男の見せた先程の表情が脳内を渦巻いていた。
 そして結局城内から誰も見つけられず、別の場所を見てきたという男にも誰も居なかったと報告された。

 バロンに戻れば全てがどうにかなるのだと思っていた。
 赤き翼で旅立ち、赤き翼は壊滅してしまったものの、城に戻れば。 家族の居るバロンに戻れば問題は解決や整理され、不安や心細さは払拭されると思っていたのに。
 少年の目的はバロンに戻ることであった。 それはバロンに戻りさえすれば家族や知った人間が居るから、その中に入って安堵出来る日常が戻って来るから。 それだけだった。
 不意に少年の膝からがくりと力が抜けた。 その場にくず折れる。
「どうしよう…僕…みんな…どうしたら……」
「…しっかりしろ、セオドア。 バロンがこうなった以上、おまえにはやらなければならないことがあるだろう」
「―――」
「おまえはこの国の王子だろう」
「…で、でも」
 僕一人ではどうすれば良いか。 そう続けようとすると、男がミストの洞窟に向かうと言った。
「私の目的もここでは果たされなかった。 次に行く。 おまえにその気があるのならついて来い」
「………」
 しゃがみ込んだままの少年に、男がゆっくりと手を差し伸べた。
 途方に暮れたような、けれど張り詰めた表情で少年がその手と男を見比べる。 逆光で男の表情は見えない。
 どうして僕にそう言ってくれるのか。 そう問えばどう言った答えが返って来るのだろう。 でも今はそれより。
「……この手を取れば、あなたに依存しているということにはなりませんか」
「それはおまえが決めろ」
「……それじゃあ、違います」
 言いながら、伸ばされた左手を取った。 初めて握った、すらりと指の長い骨ばった硬い手。
 少年を引き上げ立たせながら男は「分かった」と表情の無い声で言った。
「僕はあなたの負担にはなりませんか」
「そうだと思えば、置いて行くさ」
「……」
「……」
「あの、ありがとうございます…!」
「…ああ」

 必死で探しても見つからないものもある、それは絶望と共に。
 そして目を閉じていても他のものを見ていても、視界に、胸の奥に浮かんで消えない無形の感情もある。 それは自らの中に、ある存在ありきということを前提として。
 そして少年にはそれが見えているのだということを、自覚している、それは甘くも辛くも、痛みと共に。






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「思春期真っ盛りで謎さんの美貌にたまらなくなっちゃったセオドア」という後編に続きます(語弊)

 09.07.06


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