芽吹くアネモネ



 彼がどういった想いで、名前を捨てたと言ったかは解らなかった。
 僕にとって当たり前すぎるほど当たり前に持っているもの。当たり前に呼ばれ続けてきたもの。そして出逢う人間全てが持っているもの。それを捨てたくなるような想いとはどういったものなのか、僕には想像も出来なかった。
 だから彼に名前は何ですかと訊いても、どうして名前を捨てたんですか、とは訊かなかった。解らないのは、そして解らないことが重要なのは彼の想いであって理由ではなかったから。聞けそうにないことは訊かなかった。
 ただ呼べる名前が無いというのはとても不便だった。だから何回か名前を訊いたがその度に無視するのでなく律儀に『捨てた』と答える彼に苦笑するしかなかった。

 そしてそんな不便にも段々と慣れてきたころ。
 僕はあまりに彼の存在を示す記号ばかり気にして、本当に重要なはずの彼の素性についてはほとんど気にしたことがなく、そしてそれについての質問を彼自身にしたことがないことに気付いた。
 僕の危機に突然現れ、そしてそれからはずっと行動を共にして僕を護ってくれるだけでなく、多くのことを学ばせてくれる彼のことを僕は何も知らない。名前すら教えてくれないのだから、そんなことは殊更語ってはくれないだろうと思う。けれど僕には一つ確かめたいことがあった。日が経つごとに渦を巻くその思いを何と呼ぶのか分からなかった。そしてそれを分からないとも簡単には言えず、僕は相応しい言葉を長い間考えていた。

「…あの、」
「何だ」
 会話の中では『あなた』と呼べば良いのには慣れた。 だがこちらから会話を始めるとき、呼び掛けるときに名前を知らないことは本当に不便だと思う。 そしてそれを彼は分かっているのか、僕がやりにくそうにあの、と始めるとすぐに気付いて続きを促す。
「…あなたはどこの国の方なんですか?」
「……」
「…バロンの方ではないんですか?」
「………」
 彼は黙りこくることは多いけれど、嘘は吐かない人だと思う。だから沈黙が肯定のようなものだ。僕の中に彼の正体として、もしかしてあの人じゃないかという予想はあった。でも確実じゃないということを抜きにしても、訊けなかったし確かめようとも思わなかった。何故かは分からないけれど。
 そして彼の言葉を待って黙ったまま何も言わない僕に、彼は嘆息と共に視線を斜め下に流す。「…前から言おうと思ってたんだが」困ったように眉間に皺を寄せた。
「私の正体が、そんなにおまえにとって大事か?」
「…いえ、あなたの素性を知らないから、一緒に行動できないとか、そういうことではないんですけど…」
 僕がそこまで口にしてはじめて、彼ははっと息を飲んだ。素性も知らない人間とは普通行動を共にしたりはしないと、今気付いたように。かく言う僕も実際今気付いた。知らない人、怪しい人には近付かないように、どの子どもも親に教えられる。僕だって母にそう教えられた。そう思うと急におかしくなる。両親の元を離れて遠征したと思えば一人になり、そして一人になったかと思えば危機を救われ、その人は今まで見たこともないような強さを持っていて、そして僕が今まで出会った人すべてが当然に持っている名前を持っておらず、しかも自ら捨てたと言う。そしてそんな人と僕は何日も行動を共にしている。そのことに一片の不安を感じることもなく。
「あなたのことは、信頼してます。心から」
 照れながらもはっきりと言うと、彼は喜びか心外か、何とも形容しがたい複雑な顔をした。そして「…それなら、」と口を開く彼を遮って僕は言葉を続けた。
「僕が訊きたいのは…あなたのことを知らないのが僕だけか、ということです」
「……?」
「僕はあなたの名前も、出身も何も知りません。でも僕以外の人はあなたの名前や素性を知っているんですか?」
「………」
「あなたのことを誰も知らないなら良いです。 でも僕だけが知らないのなら…僕にとってあなたの正体は、大事なんです」
 僕が今まで出会ってきた人達というのは、皆僕の周りの誰かに名前を教えてもらった人ばかりだった。名前、出身地、使える魔法や得意としている武器。そう僕が出会ってきた人達は皆父か母の知り合いや友人で、そして僕を生まれたときから知っている。僕自身が出会い、名前を訊いて向き合った人が僕には居ない。彼の名前は知らないけれど、彼は僕が僕自身として、父や母の息子としてではなく僕自身として初めて出会った人だった。
 もしかすると彼もまた僕の近しい人と繋がりを持っているのかもしれない。先刻から続く彼の沈黙が僕の期待の灯を段々と小さくしていく。
「……困ってます?」
「…………少し」
 眉間に皺を寄せて黙りこくる彼に訊くと、また長い沈黙の後にそう言って小さく頷いたので僕は笑った。すみませんと言って、もう訊きませんと言った。彼を困らせたいと思っているわけではないし、何よりもうしばらくは知らないままでいたいと思った。
 僕の頭の中には確かに、彼があの人じゃないかと言うぼんやりとした予想があった。でもそれを今は確かめない。今はまだ彼の何も知らないでいたい気がしたから。
 それに何より、こうしている間は。
「セオドア」
 僕の思考を彼の声が遮る。視線を向けると相変わらず困ったような顔をしていたが、躊躇いながらも言葉を続ける。
「ただ…今の私を知っているのは、おまえだけだ」
 ぽつりと零すように呟かれた言葉に、僕は思わず綻んだ。 そう、彼の何をも知らない間、僕は今の彼を僕自身が出会った人間として向き合える。
 いつかこの気持ちが、この期待が寂しく変化することもあるのかもしれないけれど。
 もう話は終わったとしたのか、既に向こうを向いて野営の準備を始めている彼の姿をぼんやりと眺める。その名前が何であると告げられたとしても、彼の今の姿が僕の中に確固として根付くのは変わらないと思う。そう思って僕は笑った。状況は良くなっていないけれど、今確かに幸せだった。







end.




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アネモネの花言葉:あなたを信じて待つ、期待

私が一人称で書くセオドアは精神年齢が高いような気がする件。まぁいいんじゃないでしょうか(即決自問自答)
セオドアは最初、謎さんがカインさんじゃないかって予想すると思うんだよね。まさかねーくらいで思ってて、んで謎さんのバロンの竜騎士殺す発言で「謎≠カイン」で一旦落ち着くと。
よって今回は出会ったばかりのセオ謎でした。当社比でラブ度高めです(笑)

 09.03.01


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