Drawing



 描き始めたのはほんの気まぐれだった。

 本を買いに城下町の本屋に行く途中、路地裏の隅にぽつんとあった小さな鞄。
 革で出来たそれを拾い上げるとばらばらと低く細やかな音がした。
 黒の革はだいぶ擦り切れ、土埃で汚れている。 忘れ物というよりは落し物、落し物というよりは捨てた物だと思う。 無造作にファスナーを引き下げると、きちんと開く方法があったのか、鞄の形が崩れ一気に中身が零れ落ちてしまった。 バラバラと転がっていくそれらに一瞬呆然としたが、セシルは慌てて転がる小さな容器を拾い始めた。
 あら、セシルは絵も描くの? バラバラに散らばるそれらを拾うのを手伝ってくれた顔見知りの女性が笑って言った。 そのときにはじめて、手の中のそれが無数の絵の具であることに気付いた。

 気が付けば全て拾い集めた絵の具を再び擦り切れた鞄に入れ、持ち帰っていた。鞄の中には毛先のあちこちはねている細い筆も入っていた。ローザに見せると、翌日には真っ白な紙が何枚も綴られたスケッチブックを持って来た。そしてセシルはどんな絵を描くの?と目をきらきらさせて言った。
 うん、何か描いてみようかな、そう言ったのはローザが笑ったからだった。本当はそんな白い紙を見せられても何をして良いかわからない。
 絵なら何度も見たことがある。見ている。 何がどれくらい凄いのか分からないけれど恐らく「立派」なんだろう、大きな絵が城には幾つも飾ってある。けれどそれは既に着色されていて、元は白い紙だったというのも疑わしいくらいだ。それに金や銀の装飾のされた額縁に入れられ、城の壁に掛けられているというだけでそれはもう立派な城の立派な壁に飾られている立派な絵になる。
 こんな小さな白い紙の群れを見せられても何をすれば良いか分からない。 けれどそうは言えなかった。 鉛筆を持つセシルの右手がフラフラと迷っていることには気付かず、ローザはわくわくとセシルと白い紙を交互に見つめている。
「…どうしたの?」
 一向に動き始めないセシルの右手に、ローザが目を丸くしてセシルの顔を覗き込んだ。
「……いきなりだから、何を描けば良いかわかんないや」
 ばつの悪そうに小さく笑うセシルに、ローザはすぐにくるくると笑い、じゃあお花を描いて、ううん竜も良いなと嬉しそうに言った。
 無から有を生み出すことの難しさ。
 そんな深いことを考えたわけではない。 けれど白い紙に筆を伸ばして描くということはとても難しくてとても緊張して、それを見る人の目がとても居心地の悪くなるものだった。
 だってそれを描くということは、それが自分の頭の中に、胸の中に在るということになる。

 うんうんと心の中で唸りながら、ローザの期待に満ちた視線にぎくしゃくしながら、やっと描きあがった一輪の花の絵は、自分でも「よくわからないが下手な絵だ」と思った。ローザが今この場にいることがなんとも歯痒い。けれどローザはそれを見ておかしそうにくすりと笑い、上手じゃないけどセシルらしい可愛い花ねと言った。
 そしてこれ頂戴、と言って返事も待たずにビリリとスケッチブックから絵の描かれたページを破いてしまった。この紙は間違いなくローザの物だから異存は無いはずなのだが、本当は捨ててしまいたいという思いが確かだった。
 ただ記憶の中にある自分の描いた歪な花と、『セシルらしい可愛い花ね』というローザの言葉を頭の中で何度も繰り返し、なんとも言えない気持ちになった。
 この「なんとも言えない気持ち」が何なのかも分からないまま。 それでもそれから時々、絵を描くようになった。 誰にも見せはしなかったけれど。ローザにさえも。


 士官学校に入ってからはかなり忙しくなったから絵を描くこともほとんど無くなっていた。 あの頃拾った絵の具はいくつかはそのままあるけれど、多くは買い換えて新しくなっていたし色も増えた。 毛のあちこちはねた筆も更に毛がはねまくって使えなくなり、新しいものが太さ違いで何本もある。 入れ物である黒い革の擦り切れた鞄はそのまま使っていた。 使っていたというよりは、それに閉まったまま机の中に眠っていた。
 それなのに急にまた絵を描こうとしてふと机の中から画材の鞄を取り出したのは、ほんの気まぐれだった。


 ある日の帰り路。 人もまばらな町の真ん中、人々が家に帰り行く穏やかな空間。 青空が紅に燃え、そして薄っすらと藍を帯びて暮れ行く心地良い秋の空気。それを風ごと纏うかのように、しんと立つ『彼』の姿がとても綺麗だと思った。思ってしまってすぐ何故か悔しくなった。
 彼と帰り路を共にするのはいつものことだし、夕暮れの中を静かに二人で歩くのは当たり前なくらい常にあることだった。なのに何故今日そんな風に思ったのかは分からない。 けれど何故そう思うのだろう、と考えて、恐らく今日の昼、教室移動の際に廊下でローザと鉢合わせたとき。少し離れた場所で雲を眺めるようにぼんやりと立ち尽くしているカインを見て、彼女がぽつりと「絵の中の人みたいに綺麗ね」と言ったからだと思う。 どのあたりが絵の中の人のようなのかは判らないが、その言葉を聞いてから風に靡く金糸のようなカインの髪、そして空に溶け込みそうな静かな背中に、昔感じたような「なんとも言えない気持ち」が胸に湧き起こって居心地の悪さを感じた。


 そんなことを考えた次の日、学校が休みだったので塔の屋上に上って絵を描き続けた。 昨日見た夕暮れが、その中にしんと立つ彼の姿が消えなかった。
 日も高く、穏やかに蒼く拡がる空に羊雲が敷き詰められている。 それでもセシルは紅やら紫やらの絵の具で夕暮れをキャンバスに貼り付けて行く。 脳の裏でなく、瞼の裏でなく。 胸の深く深い部分か、もしくはただ単にこの右手の筆先にか。 昨日の夕焼けは思い出すでもなく焼きついていた。
 昔よりは良くなっただろうけれどやはり絵を描くという行為は得意ではない。 真っ白な紙に風景を描いていく、無から有を生み出すということは何度していても、描いている傍からやきもきする。 それを描くということは、それが自分の心の中にあるということだから。 描いた後で、こんなものが自分の心の中にあるのかと思うとひどく居た堪れない気持ちになるから。
 それでも昨日焼きついた風景に急かされるように筆を持つ手が動く。 この衝動は焦燥にも似ている。 あの焼きついた風景を描くという行為に何を見出そうとしているのか。 分からないから衝動。 けれど分からないままに描く手が止まらないから、焦燥。

 厚く塗りつけた夕暮れ、水色の空が紫を帯び、中心に沈み行く太陽の橙と紅の光を浴びて煌めき、影を作り出す雲。 それらを『拙く』白い紙に塗り着けた。その中心にはぽつりと人間が一人立っている。
 彼の纏う空気なんか再現できるわけがない。 そう思う。 だからあんなに燃えるような美しい夕暮れに包まれて、それでもあんなに静かにしんと立ち尽くす彼の姿なんか描けるはずが無い。 彼があの空を見上げて何を考えて何を感じているのか分からないから。 だから描いた人間はひどく寂しそうに、孤独に途方に暮れているように拙い夕焼けの中にぽつんと立っていた。
 ただあのとき、彼をひどく綺麗だと感じた自分の心の声が、彼を絵の中の人のようだと言ったローザの言葉が、思い出されて。 また悔しくなって、中心の人間の髪を気付けば銀の色で塗っていた。 銀と言ってもほとんど白。あの燃える夕暮れには呆気無く染められるはずなのに、違和感の残るほどその髪を白と灰を厚く塗って仕上げた。
 気が付けば昼から描き始めていたのに、空は描いた空に近いような橙に染まっていた。 一日をこうして一人絵を描くことに費やして、衝動に駆られて塗りたくった夕暮れは心情的には暗闇に近く感じた。 昔はじめて描いた一輪の花。 それを見てローザが向けた笑顔と言葉。『セシルらしい可愛い花ね』。
 その『なんとも言えない気持ち』に名前をつけようかと考えた所に、「――セシル」後ろから不意に声を掛けられ、飛び上がるほど驚いた。
「わ、悪い。そこまで驚くとは思わなかった」
「…カイン、」
 気配を消して近付いたわけではないだろう。 近付いてくる人間にも気付かないほど自分は無心に絵を描いていたのか、と半ば呆れる。 そして驚いたことでどくどくと鼓動を大きくした心臓を落ち着けるように深呼吸した。
「絵を描いてたのか?」
「うん、まあね。 どうしてここに?」
「いや、竜舎にいたんだが…おまえがここに居るのが見えたから」
 言いながらカインの視線は真っ直ぐにセシルが手に抱えるスケッチブックに向けられている。
「……」
 手元を覗き込むために少し屈んだカインの金の髪がさらりと流れた。 真ん中の人間の金の髪を塗り潰しておいて良かったと心の中で嘆息する。
 昔自分が絵を描くのを横でずっと見ていたローザのように、何か言うかと思ったが、カインは絵に対して何も言わなかった。 単に上手いとか下手だとかそういうことでなく、セシルらしいとか意外だとかそういうことでなく。何を言うと期待したかは分からないけれど。カインは何も言わなかった。
「あんまり見つめられると照れるんだけど」
 そう言うと、カインは無表情にそうかと言うと屈んだ姿勢を直して絵から視線を外した。
「今日はずっと絵を描いていたのか?」
「うん」
「それ、昨日の夕暮れだろ」
「…どうして?」
 どうして、と訊いたのにカインは何も答えなかった。 またあの「なんともいえない気持ち」がふつふつと湧き起こる。 いっそ陳腐でも月並みでも、適当な感想を漏らしてそれで終わりにしてくれれば良いのに。 そう思いながら画材を片付け始める。
 緩慢な動作で鞄に絵の具を詰め込みながら、あんまり上手く、綺麗に描けなかったんだと呟いて笑った。 言い訳にするつもりもなかったけれど、これじゃあ普段が上手く描けるみたいな言い方だなと一人胸の中で自嘲した。 カインは何も言わず、セシルの様子をぼんやりと眺め、片付けが終わった頃、静かにその絵をくれと言った。
「は?」
「だから良ければ、その絵をくれ…ないか?」
 カインの表情はどこまでも無表情で、その真意は分からない。 ましてやこの絵を欲しいと言っているわけだから余計に分からない。 だが欲しいと言っているということは気に入ったと言うことだろうか。 どう反応して良いものか戸惑いながらセシルがスケッチブックのそのページを破る。 昔ローザがくれたスケッチブック。 普段そうするよりも少し丁寧な動作で夕暮れのページを破り、カインに手渡した。 彼はありがとうと小さく笑って受け取った。
 彼はその絵を貰ってどうするつもりだろう。 そういえば昔絵を破いて持って行った彼女はあの絵をどうしただろう。 そんなことを考えながら、でもその絵をどうするのなどと訊いたところでそれこそどうするのだろうとぼんやり考え、受け取った絵をくるくると丁寧に巻いて行くカインの手元を眺めていた。 そして巻き終わった絵の側面をとんとんと叩いて形を整え、カインが静かに口を開いた。
「絵は、その人の心を表すらしいな」
「…え」
「だって、心の中にある物じゃないと描けないだろ」
「……」
「俺はこの絵、きれいだと思う」
 シンプルな言葉で褒めて、それに照れたのか彼は小さく笑うとじゃあな、と言って軽やかな動作で高い縁を越えて飛び降りて着地してそのまま颯爽と歩いて行ってしまった。
「……………」
 一人取り残されて呆けたように立ち尽くしながら、彼の言葉を反芻する。『心の中にある物じゃないと描けないだろ』『この絵、綺麗だと思う』。
 そして昔ローザに言われた言葉。『セシルらしい可愛い花ね』。
 知っていた、自分でも。 心の中にある物しか描けない。 言わば、自分の心の中にそれが在るということだ。
 夕暮れは綺麗だった。 でも珍しい風景じゃなかった。 その真ん中にしんと立つカインの姿が綺麗だと思った。 でもそれが悔しくて銀で塗り潰した。

 『絵の中の人みたいに綺麗ね』
 『絵はその人の心を表すらしいな』

 綺麗だと思う、そう言った。

「『あんなもの』が…僕の心の中にあるっていうことになるだろ」
 描いたものは心情的には暗闇だった。
 なのに綺麗だと言われてしまった。
 悔しくて塗り潰したものを。
 悔しくて塗り潰したものに。

 濁流のように溢れ出す、「なんとも言えない気持ち」。 それは劣等感や寂寥感、疎外感。それらが卑屈にない交ぜになって足元すら覚束なくなる、自己嫌悪と呼べるような感情。 それだったと気付いた。

 やはりあの夕暮れの絵も、昔描いた一輪の花の絵も。 破り捨ててしまうべきだったと、セシルは小さく小さく後悔した。







end.




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初のFF4。セシカイ二人しか出ないモロBLなSSを書こうと思ったのにしょっぱなからローザが出てきてアレ?と。さすがバロン三人組は強すぎる…!

 09.01.13


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