10.Black Gunner




 何故彼女を護りたいなどと思ったのかは分からない。聖導者としての道を失い、狂気とも言えるような殺意を胸に片腕で剣を握る彼女を見れば、恐らく他の信者ならば絶望或いは怒りを覚えたことだと思う。
 僕達聖家の信者は、正確には悪魔と立ち向かうと言う目的では神に祈ってはいない。己の中に確固たる『安堵』を棲まわせるために神に祈り、そうすることによって『自分は大丈夫』などと言う主観的な安心感を得たいがために十字架に跪くと言い換えることも出来る。
 そんな僕達にとって大聖家結崎家の嫡子、奇跡の申し子『結崎ひよの』には勝手ながらもそれなりのイメージを持ち、そしてそれなりの期待を向け自分達を導いてくれるよう常に願って来た。

 数年前、結崎家が悪魔に滅ぼされたという知らせが広まり、それとほぼ同時に悪魔が爆発的に増えた。 今この世には一体どれほどの人間が残っているのか。悪魔に滅ぼされた街は多い。悪魔は雨を呼ぶから、その雨がもたらす洪水によって沈んだ低地の国もあると聞く。
 結崎家が滅びたという知らせが回り、そのしばらく後に結崎ひよのも死んだという噂がゆるやかに流れた。そしてその噂は多くの聖者達を絶望の淵に立たせたが、彼女がこの世に生を受けたときは、噂などでなく『啓示』の如く聖者の脳裏にその事実が降りて来たのだから、彼女が死んだときもきっと、突然胸に穴を穿たれるような感覚によって知らされるのだろう、だからまだ大聖家は滅んでなどいないと誰もが自分に言い聞かせた。それは自らを絶望から救う暗示でしかなかったが、溢れる悪魔達に屈服せずに立ち向かうには充分な力を発揮した。大聖家の十字架が堕とされたとしても、結崎ひよのさえ生きていれば彼女がどうにか聖者達を導き、光を指し示してくれるなどと勝手に思っていたのだ。そしてその思いだけに人々は悪魔と対面しても神に祈ることが出来た。

 だがそれも束の間。二年もすれば悪魔と共に、かれらに魅入られた人間達までもが脅威となった。聖家の祈りでも彼らを元に戻すことは出来ず、多くの人間が自身の、或いは家族や友人の心を盗まれてしまい、破壊と殺戮の渦に巻き込まれて行った。それでも結崎ひよのは現れない。最期まで彼女の救いを信じ死ねた幸せな聖者もいたが、中には裏切りに似た思いを抱き絶望の淵に悪魔に魅入られてしまった者もいたことだろう。

 そしてそんな期待や願いを充分に知っているからだろう。先程からの僕の言動が理解出来ないと言うように、彼女は怪訝な顔を向けた。そのあまりに無防備な表情におかしくなって小さく笑うと、彼女は更に眉間に皺を寄せた。
「…あなたは、私に失望しないんですか?」
「どうして?」
 彼女がそう問うた理由など分かりきっていたけれど、僕は敢えておどけるように尋ね返した。すると彼女はやはりその理由を言葉に出来ずに少し口を噤んだ。
 聖者達が彼女へ精神的な充足を求め、それぞれの共通した期待や願いを胸の内に抱いていた。それは形にすることなく。そしてその形にならない期待や願いを、彼女は言われるまでもなく知っていたのだろう。そして今になって、彼女の中にその期待や願いに背くような目的や結論が出たからと言って。謝罪を述べるに相応しい直接的な理由など、あって無いようなものだ。だから彼女は、僕の問いに大体こう答えるしかない。
「私が…結崎ひよのが、あなた達の想いに応えることが出来ないからです」
「力が無いんじゃなくて、そうする気が無いんだろう?」
 それならどうしようもないさ、と付け加えると、彼女は僕の言葉の意味を飲み込むのに数秒間を置いて、その次にひどく傷ついた顔をした。
「確かに……その通りかもしれません」
 俯き、左手で肩の先を失った右腕の付け根を擦る。 彼女に力が無いかどうかは僕には分からなかった。ただ、彼女は右腕を失くしている。そしてその右手は、かつて翳すだけで悪魔の呪いを祓う『奇跡の御手』と呼ばれていた。「今の自分に力は無い」彼女は先程そう言っていた。だからたぶん、それは本当のことなのだろう。だが僕の言葉に反論しないということは、聖者を導く『使命感』が彼女に無いこともまた、事実なのだろう。僕は改めて、心の奥底からの安息を求めていた僕自身が、求めていた彼女に寄り掛かることが出来ないことを確信した。それは不思議と、絶望とは違った意味合いを持っていたようだけれど。
「僕達は確かに、何年もキミの導きを求めていたしそれに縋って来た。だけど悪魔に結崎家が滅ぼされたということは、考えるまでもなくキミは家族を失ったということだ。そして右腕をも失って剣だけを手に独り旅している。キミの負っている傷を思うと責めるなんて出来ないよ」
 信者達は自分の家族が奪われた苦しみなら分かるのに。聖家を導く立場である結崎家の者、そしてその頂点に立つとされる結崎ひよのには哀しむことは許さないだろう。恐らく彼女の立つ場所とは、背負っている宿命とは、『導く者』とは、そういうものだ。僕だって彼女を今目の前にしていなければそう考えていただろう。
 ならばなぜ彼女と言葉を交わしてその考えが変わったのか。それは分からない。だがたぶん考えは言葉を交わす前に変わっていた。言葉を交わす前、彼女がこの部屋に踏み込んだとき、或いは 僕が彼女とはじめて逢ったときから。

 勿論、大聖家の頂点に立たされている自分が、家族を失って悲しみに打ちひしがれているだとか、そのために聖者達を導くことは出来ないとか、後は余生を悪魔達の滅殺に使い過ごすとか、そういうことを言える立場でないことは彼女が一番知っているだろう。
 だから彼女が僕の言葉を本気にしたかどうかは分からない。しばらく少女のように無防備な顔で目を丸くした後、ゆっくりと微笑んだ。
「優しいんですね」
「そういう風には考えない方が良い」
「どうしてですか」
「困るからだよ」
「?…あなたが、ですか?」
「お互いにね」

 何故彼女を護りたいと思ったのかは分からない。
 けれど彼女を護ろうとすることには、僕には理由があった。そう、彼女には恐らく伝えるべきではない、理由が。





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