9.Darkness Nova




 彼が私に逢ったのは11歳のときだと言った。同じ年に生まれたのならば私もそのとき11歳だったことになる。しかし私は彼を覚えていなかった。謁見に来た信者達のことは全員覚えているつもりなのに。
「私と、会って会話をしましたか?」
「ううん。だからキミは僕のことを覚えていないのかもしれないね」
 そう言って彼は面白そうに笑った。碧の目を細めて更に続ける。
「信者として謁見したのなら、覚えていないはずがない…そうなんだろ?」
「えぇ」
「それなら別の立場として会ったのなら、覚えていないこともあるってことだ」
 意味深にそう言うと肩を竦めた。
「……」
 顔を覚えていなくとも、謁見に来た信者達は皆名前を残して行くから、忘れるはずがないのに。特に彼のように異国の珍しい名前なら尚更。それなのに私はそもそもヒルベルト家という聖家の名前を知らない。
「ま、僕が君といつ出会ったかなんて大した問題じゃない。そうだろ?」
 彼は一方的に話に一段落を着けたようにパンと両手を打ち合わせた。
「でも不思議なんですよ。こんなことは初めてで…」
 彼のようにすっぱりとは話を切り替えられず、ううんと唸る。そんな私に彼はははっと笑い、
「それよりも僕は、君の放浪が十字架を護るためでないってコトの方が不思議に思うよ」
 そう言って首を傾げ子どものように私の顔を覗き込んできた。
 彼のそんな、無遠慮だとも大いに思える仕草。 結崎家の嫡子という立場上、私は彼だけでなく家族以外の誰にもこんな風に近しい態度をとられたことがなかった。恭しいというにはあまりにも私自身への『畏怖』を滲ませた、ぎこちない礼儀正しさしか向けられて来なかった。私はそれを決して快く思ってはいなかったが、何しろそれとは逆の「馴れ馴れしい態度」をされたことがなかったのでそう接して欲しいなんて望んだこともなかった。だから先程から彼のさも当然のような私への自然な態度に、内心とても戸惑っていた。けれどその戸惑いは不快や不安で胸をざらつかせるものではないので、たぶん私はそれを少なからず望んでいたのだと思う。
「私の旅の目的は…悪魔を根絶やしにすることだけです」
「まぁ、ある意味で十字架を護ることにも繋がってるか」
「それは結果論でしょうね。私の頭の中には目的としてありません」
 きっぱりと吐き捨てるように言った私に、彼が苦笑して肩を竦める。
「……教祖様がそれを言っちゃあ信者の僕達は何に導かれれば良いのかな」
 確かに彼の言葉は一理あるのかもしれない。結崎家は『大聖家』教祖であり、彼がその教えに倣って来た聖家の人間であるならば、私は彼を導かなければならないのだろう。しかし。
「結崎家はもう既に滅んでいます」
「でもキミが、」
「私は結崎家を復興させるつもりはありませんよ」
 何かを訴えてくる彼の言葉を遮って、私はゆっくりと首を振った。
 悪魔に家族を、国を、この右腕を。奪われた私は、かつての結崎家嫡子である結崎ひよのに求められて来た鎖を全て断ち切って来た。
「かつての私は望まれるまま、求められるままにこの身に宿る聖なる力を神の御心のまま使ってきました。 人々を救うというお題目のため、父や母の笑顔を見るため、目の前で苦しんでいる人から目を逸らせないがため…様々な理由で力を振るってきました」
 そんな風に様々な理由があったことに気付いたのも最近の話。それまでの私には『神の御心のまま』で全てが足りた。私がこの世に生まれ、この力を持ちそして生きているのは全て神の御心のためだと心から信じていた。そしてそう信じてそう生きていることが正しいことだと心から信じていた。 だからあのときの私は誰よりも強かったのだろう。
「でも今の私にかつて持っていたような力はありません。そしてそんな力を振るう理由も。 私がそれまで生きていた理由を全て奪われた今は、それを全て奪った悪魔達を地上から消去することだけが私の理由です」
「…………」
「だからあなたの声に応えることも、あなたを導くことも出来ません」
 そもそも、雨を頼りに影を目指して彷徨うだけの私が、誰を導けるだろう。
 浮かべた笑みに自嘲が混ざると、彼が何とも複雑な表情をした。不安、憐憫そしてどこか安堵の含まれたその無防備な表情に、私が続ける言葉を捜したとき。
「堕ちた聖者、か」
 ぽつりと呟かれた言葉。 そう、聖なる力を統べ神に祈りを捧げる人間がその支え、つまり信心を失うことは『堕落』でしかない。
「僕がはじめてキミに出会って、それから今までの間にキミの周りに中に何があったかは知らない。でも…キミが強い決意を持ち、そしてとても弱い人間であるということはよく分かった」
 大聖家の者としては許されないはずの私の言葉、それに彼は大いに軽蔑し絶望したかと思ったのだが。彼はどこか使命感に充ちたような満足そうな笑みを浮かべていた。
「……な、」
「キミに護られることは期待出来ないようだ。…それならば僕がキミを護ることにするよ。キミは強く鋭い剣を持っていて、そして同じくらい弱く壊れやすい心を持っている」
 謳うような彼の言葉を途中で遮った方が良かったのかもしれない。全てを聞いてしまったそれだけで彼の言葉を肯定し、差し出される手を握り返すことと同じことだろう。
 私は耳を塞いで彼の差し伸べる手を振り払うべきはずだった。そうしたかったはずだった。 私の精神は自由であり、頼る者も頼られる者も持たずただ自分の目的だけを遂行するために生きるべきだった。
 私は(かつて)大聖家の嫡子として生まれ、神の申し子と呼ばれるほどの力を授かり蓄え、大いにそれを振るい数々の人間達を護り導いて来た。誰かに護られることなど、誰かに導かれることなど、一度だってされたことはない。
「僕がキミを導こう。僕の中にはまだ神が棲んでいるから」
 私は戸惑っていたのに。選択をしてしまった。





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