8.Unknown Sympathy




 一度見た人間の顔は忘れない、とは言ったけれど。そんなことを差し置いたとしても、僕は以前彼女を一目見ただけでこの脳に焼き付けた。そしてたった今、変わり果てた彼女の姿を目にしてもすぐに彼女が記憶の中の「結崎ひよの」であると判断出来た。だが驚くべきは、彼女が片腕を失くそうと泥に塗れようと十字架を捨て剣を握ろうと、彼女が結崎ひよのであると無条件で納得させてしまうその空気か。 聖職者であれば彼女を知らない者はいない。彼女は奇跡の代名詞のような存在だった。

 文明が興り2千年以上続くこの世界は、かつて聖職者と悪魔との戦いの舞台だった。数百年前突然現れた、退廃の雨を降らせる異形の悪魔に駆逐されんとしていた人間達を十字架の下にまとめ上げ、神聖なる力で神と対話しその力を借り悪魔を祓い、各地に聖堂という平和の道標を築いたのが結崎家の始祖。
 それから年月が流れ、結崎家が各地に聖堂を置き広めた神への祈りの力により悪魔は姿を消した。それから何百年も悪魔は現れず、また聖家の力というのも気休めの祈り程度のものになり、『奇跡』と呼ばれる力は邪悪なものも神聖なものも消えた。しかし17年前に、絶え間なく降り続ける流星群により真昼のように明るい夜、生まれたのが結崎ひよのだった。その夜彼女が生まれたことは、何で広めるまでもなく十字架を持つ聖職者達の頭の中に直接神の声で届けられた。平和な世界で誰もが只の習慣のために教会に赴き祈りの言葉を呟いていた中、その事が起こって以来数多くの人間が大聖家である結崎家を思い出し、奇跡の子である結崎ひよのに謁見すべく旅を始めた。僕の家もその一つだった。

「僕は大聖家のある場所から大陸二つ分は離れている場所、悪魔との戦争があった際にもあまり被害が無かったほどに小さく素朴な田舎で、キミが生まれる二ヶ月前に生まれた」
 彼女の足に包帯を巻きながら僕はポツポツと語った。 彼女は何も言わず、言葉の節々で小さく頷いて相槌を打つ。
「小さなステンドグラス、5つの子どもの身長ほどの小さな十字架、それが申し訳程度にそこが聖家であると主張しているくらいの、本当に小さな聖家だった。だが父と母は、熱心な信者でね。僕が物心ついた頃からずっと結崎家の奇跡を話して聞かせたよ。僕が大聖家の嫡子と同じ年に生まれたことを何かの導きだと言った。その証拠に、キミが生まれてすぐ・つまり僕が生まれて三ヶ月目。両親はすぐに結崎家に謁見すべく生まれた村を旅立った」
「本当に熱心な信者だったんですね…」
「何でも、父が幼い頃に重い病気に掛かってね、もう助からないとされていたときに巡業中の結崎家の人が訪れ、その祈りの力で治してくれたらしいんだ。父の両親が家に十字架を置き聖家としたのはそれかららしい」
「へぇ…」
 彼女は僕の話を面白そうに聞いていた。十字架を持たないその身に僕の話がどれくらい重く響くのかは知らないけれど、彼女はどこか懐かしむように一族の起こした奇跡の話を聞いていた。人を患っている病気や、その類のものを祈りの力で取り除くことは、彼女にしてみれば何でもないことなのだろうけど。彼女は十字架の前に跪くこともなく、祈りの言葉を唱えるでもなく、右手を相手の前に翳すだけでその『奇跡』と呼ばれる光を発して見せたのだから。
「そして旅を開始したんだけど、実際に大聖家に辿り着くまでに10年以上の年月を要してしまった」
「………」
 僕が生まれた年でもあるけれど。彼女が生まれた日、空を流れ星が埋め尽くした日。それ以来、悪魔がまた現れるようになったのだった。あの流れ星こそ凶星、その一つ一つが悪魔の欠片だったのだと叫ぶ者もいる。大聖家の嫡子は悪魔の申し子であると叫んだ反家もあった。その頃はまだ、悪魔は数は少なくそう毎日現れるものでもなかった。ただ以前と違っていたのは、人間を魅了し虜にしてしまう力をつけていたこと。とり憑かれた人間は不可解な言葉を叫び、破壊衝動の下に暴力を振るい周囲の人間を不幸にし、途方に暮れさせた。だが数も頻度も少ないその症状は、世界各地に点在する聖家の祈りの力により癒すことが出来た。
 はじめは少なかった悪魔も、年々数を増し、そして憑かれた人間による暴力沙汰の事件も増えて行った。僕の両親も聖家の端くれであり、祈りの力はあったので旅をする間、様々な小村に立ち寄り悪魔を祓う手伝いをした。一つの村を拠点に数年それを続けたこともあり、結崎家に辿り着いた頃には僕は11になっていた。
 そう、僕が彼女に初めて会ったのはその時で。11才の時の彼女を、一目見ただけで、僕はその神々しさの前に殉じることが出来るのであれば十字架以外の何も信じる必要はないと感じたのを覚えている。覚えているまでも思い出すまでもなく、僕の血肉と、魂と呼べるだろう精神体は、そのために今も息をしているのだから。父母が何を信じていようと、何を信じよと僕に教えたとしても。この絶対的な説得力こそを神と呼ぶのだと、そしてそれは僕の中にあり僕だけの物なのだとその時に知った。





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