人と話したのはいつ以来のことなのか。思い出せないほど昔に感じる。それは同時に思い出したくないほど脳の奥に仕舞いこんだものでもあったから、彼と話すことで無意識に脳が記憶を引っ張り出そうとするのを私は意識して止めた。 私は流れているのだから関係ない。今出逢ったばかりの彼と共にいる時間も後僅かのはずで、この傷を癒しこの街の悪魔を絶やし雨の止むのを見届ければ私はここを去る。また別の場所で剣を振るうまで歩き続ける。なのに。 「あなたはいつからここに?」 「三日前、かな」 言いながら彼が水の入った皿と、それに浸された白い布を寄越してくる。軽く礼を言って受け取り布巾を絞る。着替えは無いので破れたタイツの上からそのまま傷口に布を当てると一瞬鋭い痛みが走った。痛みを無視してそのまま汚れを拭き取って布を漱ぐと、彼が棚から薬の瓶を取って来た。 「随分勝手を知ってるんですね」 「三日もいればね」 肩を竦めて小さく笑う彼に、私は驚くほど警戒を解いていた。これまでずっと姿身の醜悪な悪魔やそれに魅入られ狂ってしまった人間、そしてそれらに殺された屍ばかり見てきた。そもそも正常な状態である人間を見ることも久し振りと言うこともあるが、彼の人懐っこい笑みはすんなりと人の心に入る術を持っているのだろう。 悪魔ならば敵、そしてその臣下となった人間も敵。今まで敵ばかりを相手にして来たからか。それ以外の人間ならば敵ではないという勝手な逆説が出来てしまっているのか。 どちらにしろ私はかなり疲れていたし好き好んで誰かと争ったりしたいわけでもない。彼の好意的な笑顔や言動がそのまま厚意であるならばそれに越したことはない。勿論、油断した途端に彼がその銃を私に向けて来るとすれば、すぐに剣を握って構えることが出来るくらいには緊張してはいたけれど、やはり心のどこかでは安堵していた。 「――っい、良いですよ、別に…ッ」 傷口を洗ったのを見計らい、彼が指先に軟膏薬を掬って歩み寄って来た。さすがにそこまでしてもらうつもりは無かったので慌てて椅子ごと後退さる。 「どうして?薬を塗るためなんだから、いくら女の子の足に触るからって変な気起こさないよ」 「当たり前です!あなたは聖職者でしょう!」 「キミもね」 「………」 会ったばかりの彼に、気安さを感じていた理由がなんとなく分かった。彼は私を知っているのだ。 「キミも聖職者だろう? 格好からは見る影もないけどね」 「…私を知っているんですね?」 「そりゃあもう。『大聖家』結崎家の嫡子、巫女結崎ひよのを知らない聖職者はいないよ」 「……………」 確かに、結崎ひよのという名前は恐らく聖職者ならばほとんどの者が知っているだろう。けれど私がその「結崎ひよの」であると結びつける材料など無いはずなのに。 「悪魔が現れ出して真っ先に襲われたのが結崎家だろう。父母は勿論、キミも悪魔に殺されたという噂が流れてもう大分経つよ」 「…それならば何故あなたは私が結崎ひよのだと?」 「一度会ったことがあるんだよ。一度見た顔は忘れない自信があるんだ」 そう言って冗談のように笑ってみせる。『結崎ひよの』もう呼ばれることも無いと思っていた名前をここで出されるとは思わず、なんとも複雑な気持ちになる。この名前により私は不幸になり、不幸を撒き散らしたのだから。 「あなたの名前は?」 「カノン・ヒルベルト。田舎の小さな聖家だから知らないと思うよ」 「えぇ…そうですね」 私は一度覚えた名前は忘れない。大聖家である家柄、数々の聖家が謁見に来たことがあり、その一人一人の名前は全て脳に刻まれている。もう既に正常な状態でこの世にいる者はほとんどいなくとも。ヒルベルトという名前、それを私が思い出せないのなら会ったことがないという結論になる。ならば彼はどうして私に会ったというのか。それに。 「それがどうしてこんなに気安く話してくるのか?って訊きたそうだね」 私の思考を呼んだのか、笑いながら彼が肩を竦めた。 「本当なら顔を直視してもいけないほどの立場ではあるんだろうけど。そういうのを望みそうもない人だと思ったけど…ひよの様?」 「やめてください」 様付けで呼ばれるのは物心ついたときからで、その頃から既にうんざりしていた。 「キミなんて呼ぶだけで首を刎ねられそうだけど。十字架を持っていない以上キミに傅く(かしずく)理由も無いからね」 「その通りですよ、カノンさん」 悪戯っぽく笑う彼に私も笑顔を向ける。この顔が笑みを浮かべたのはもう何年振りかになるのかもしれない。 三年前、家を、家族を、右腕を。失ってからただひたすら一つの憎しみと言う目的のために流れてきた私が、堰き止められてしまう。 三年前に全てが終わり始まったのだと思っていたのに。ただ流れ、敵を排除し、死ぬまでそれを繰り返すだけのはずだったのに。私は彼に名前を知られ、そして彼の名前すら知ってしまった。これこそを始まりと呼ぶのだと後で思うのだろうが今はただ何も終わらず始まりもせず、ただこの時のために時間が止まれば良いと思った。薬を塗りながら包帯を巻いてくれるその手に、三年振りの安らぎ、そんなことを思った。思ってしまった。 |