5.Ringing Bell




 目を閉じると瞼の中に広がる、そんな暗闇は好きだった。すべてを否定できるから。それを見ない振りと呼ぶのならそれもいい。
 けれどおかれている場所、空間の暗闇は決して好きになれない。解らないものは好きになれそうにない。不安になるから。
 目を閉じると降りてくる闇、それは安堵をもたらすのに。少なくともそうしている間は何も見なくて済むから。何も見ていないと自分に言い聞かせることができるから。
 一方的に与えられる暗闇は不安で仕方無い。目を開いていても見えないこと、その場に何が居ても、何が在っても分かれないこと。その不安は心を挫いてしまう。
 昔の私には暗闇は怖くなかった。瞼を閉じていても心を開いている私であったから。見えなくても、分からなくても、そこに在る物を受け入れられるだけの精神が備わっていたから。今の私にはそれは無い。捨ててきてしまったから。奪われてしまったから。「から」「為に」そんな言葉ばかり使う。理由があれば自分を責めずに済む。

 雨の中辿り着いた聖堂。表の入り口は既に瓦礫に埋もれている。私の腰くらいの体長しかない悪魔が三匹、ガリガリと瓦礫を引っ掻いている。大抵悪魔とは直視するのも憂鬱になるほどに醜悪な形をしているものが多い。「異形」と一言で言ってしまうのは勿体無いほどに。
 だがこの瓦礫に群がる三匹の悪魔はシンプルな形をしていた。全身が真っ黒で、目らしい金の丸い穴が三つ顔の真ん中に張り付いている。遠くから見れば影のようだ。爪だけが異様に長く、それでしきりに聖堂の扉を覆う瓦礫に爪痕をつけている。知能が感じられない。人を魅了するほどの力は無いだろう。それでも力を持たない人間にとっては巨大な脅威となるのだが。
 何も言わずに近付き、悪魔に向かって事務的に剣を振り下ろした。一匹目は声を上げる間も無く弾ける。返す刃で斬り付けた二匹目は即死せずに耳障りな悲鳴を上げた。躊躇うことなくその頭を剣で薙ぐ。三匹目が瓦礫から飛び降り、逃げようとしたので追い掛けた。本気で追う気はなかったので数メートル走って止まるつもりだった。けれど一歩踏み出した瞬間、逃げ腰だった悪魔がくるりと踵を返した。狙っていたのだろう、走り出しの私に勢いよくぶつかり、そのまま左腕の手首に噛み付いた。
「……ッ、」
 鋭い痛みが走ったが剣は離さなかった。悪態は心の中だけで吐き、左腕に牙を食い込ませてぶら下がる悪魔を蹴飛ばす。右腕があれば剣で突き刺したり牙を外そうともがいたりも出来るのだろうが、こんな戦いの世界に足を踏み入れる前に右腕を失っている以上、その不便さはあまり口にしたことはない。
 悪魔は一瞬離れたが、すぐに長い爪を振り翳して飛び掛かって来た。即座に剣を構え直し、爪を払った。瞬間に咬まれた腕に痛みが走ったので叩き折るには至らない。だがそれでも小柄な悪魔をふらつかせることが出来た。生まれた一瞬の隙に、泥濘んだ地面を蹴って右足で悪魔の胸を踏みつけ地面に押し倒す。勢いよく地面に叩きつけた拍子に泥が顔に撥ねた。安堵も呆れも怒りも含む感情を込めて嘆息し、足の下でもがく悪魔に剣を突き立てた。水溜りに大きな石を落とすような、バシャンという音を立てて悪魔は弾け、消えた。悪魔は死ぬと消えてしまう。後を汚すのは人間だけ。
「………」
 剣が地面に突き立っているのを確認し、剣の柄から手を離した。よほど強く握り締めていたのだろう、掌や指先が真っ白になっている。二回ほど拳を結んだり開いたりを繰り返し、泥が撥ねた顔を拭った。拭わずとも雨に泥は洗われるが、悪魔が降らせる雨はそれ自体が汚れているようで気持ちが悪かった。身震いして剣を抜き取り、背負っている鞘に納めると再び聖堂の前に歩み寄る。
 瓦礫によって表の扉は使えそうにもないので裏口に回る。「大聖堂」と呼べるだけあって巨大な建物は、雨や泥、瓦礫や植物に阻まれて裏口を探すのも苦労した。何年も使われていなかったような、蔦の這う小さな扉。 壊すことになるだろうと思いつつ掌でゆっくりと押してみると、予想外に扉はすぐに開いた。

 中に一歩足を踏み入れた途端、暗闇が広がった。暗雲の下、雨が降りしきる外よりも遥かに暗い。無意識の内にふっと息を詰めるように吐いていた。掌から熱が引いていく。緊張して強張る体に心の中で毒付きながら、中へ中へと進んで行く。
 内部に悪魔の気配がしないということは、この聖なる場所を護っている人間がいるということ。この建物の中に人間がいることは確かだった。
 しかし街にはもう誰もいない。そんな中この聖堂だけを護って立てこもるなど、正気の沙汰とは思えない。一度完璧にまで破壊された街の、それでも復興を願うのなら、尚の事一刻も早く街を出るべきに思う。
 進むに連れて段々と目が慣れてきた。内部はかなり荒れているが、散らかっているだけでそこまで傷ついてはいない。よほど力のある人間が悪魔からここを護っていたのだろう。そして私にはやはりそれも不可解だった。聖職者ならばこの場所を護る意味や理由があるだろう。けれど戦う術や精神を持たない聖職者には悪魔と戦い続けるだけの力が無い。だからこの場所を護っている人間は、聖職者ほどの信仰心と武力を兼ね備えていることになる。
 廊下をずるずると縦断すると、扉の前に立った。他の扉よりも大きく、装飾が厳かだった。位置的に教会の中心、祈りの間に続く扉だろう。美しいが古く傷だらけの扉。小さな光が一筋、差し込んでいる。この向こうにこの場所を護る人間は居るのだろう。私はすぐには扉を開けず、息を潜めて扉の傷から中を覗き込んだ。
 かなり薄暗いが天井に穴が空いているのだろう、今私が居る廊下などよりは遥かに明るい。机や椅子が散乱している奥に、ぼんやりと人影が見える。背を向けて顔は見えないが、服装からして聖職者であることは明らかだった。黒く大きな法衣に、袖に施された金糸の刺繍。胸にはクロスが下がっているだろうことが容易に想像出来る。
 不意に向こう側を向いて何かをしていたその男がこちらに向き直った。その手には二丁の銃が握られている。整った顔立ちに、哀しげな光を湛えた翠の瞳。そして胸に光るのは、やはり想像していた通りの大きなクロス。だが彼の両手に一丁ずつ握られている拳銃は大きな矛盾。服装や纏う空気からして、彼が聖職者でないとは思えない。けれど。
 一瞬迷ったが、ふと私の脳内に好奇心が湧き、気付けば左手で扉を押し開けていた。中にいる男が息を詰めたのが気配で分かる。
「こんな所で、何してるんですか?」
 人間に向けて言葉を発したのは、意思疎通の意味で言葉を発したのは。いつ振りのことだろう。





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