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 たとえばそんな言葉だとか







  + おかえり +








 ふとしたときにその言葉全てを思い出せるくらい、考えてみれば聴いた言葉は少ない。

 霜の下りた道路、早朝の静けさの中家に向かう道。カノンの嘆息が白く立ち昇った。
 こうして一人歩いているときは、色々なことを想うものだけれど割合と多く思い出しているのが結崎ひよののことだった。
 あの笑顔だとか怒った顔だとか哀しんでいる顔だとか、無表情以外の様々な温度の表情を空気を人柄を。
 こんなにも思い出せるのに自分は彼女という人間を何も知らない。何ひとつ知らない。
 住んでいる場所だとか朝何時に起きるとか好きな色とか。
 向こうは知っているのだろうか。きっと知っているんだろう。
 自分の住んでいる場所や朝が得意なこと、好きな色とか食べ物とか。
 自分の家を彼女が知っているのは半ば当然だ。朝が得意なことを知っているのはもう必然だ。
 だってカノンは深夜ともいえるほどの朝早くから仕事をしていて、そして帰る家には既に彼女が待っているのだから。

 ひよのは特別で、彼女がよく知っているのは恐らくカノンのことだけではない。彼女は様々な人間の様々なことを知っている。良いのか悪いのか。そしてカノンは彼女が『特別』であることを知っている。知っている前にそう思っている。

 会えた機会は少なく、会っている時間はあまりにも刹那。
 そして対峙している間、交わす言葉がまたあまりにも僅少。

「ひよのさんって、結構おとなしいよね」
 朝陽が昇るか昇らないか、そんな時間帯。部屋に帰ったカノンの姿をひよのが認め、「おかえりなさい」と眠たげな声で言った途端。 カノンが返した言葉がそれだった。
 カノンの想像通り、ひよのは目を丸くしてしばしその意味を考えるように首を傾げた。
 どんなタイミングでどんな言葉を投げ掛けようとも彼女は考えてくれるのだ。そんなこともカノンは知っている。
 そして待つこと4秒、ひよのはふふと口の端を持ち上げて笑った。
「そんなこと言われるのは初めてですよ」
 お喋りな方だと思うんですけどね、たぶん、いえ絶対。だっておとなしい新聞部なんていないですよ。
 そんなことを言った。自分でも確かめるように。
「お喋り大好きですし」
「だって、僕とは全然喋らないじゃない」
「そうですかあ?」
「うん、少なくとも僕はひよのさんと交わす会話の記憶が全然ないんだけど…」
 そう言うとひよのは、変ですねぇ、と更に首を傾げた。
 会話の記憶を辿っているのでなく、どうしてその会話をカノンが覚えていないのだろう・という『変ですねぇ』だ。
 そしてそれに答えを出す前に質問する。
「…今、そんなことが気になったんですか?」
 短い言葉の中にはきっと色々な意味が含まれている。

 どうしてこのタイミングで?
 あなたの中で、あなたと私はどんな言葉を交わしているべきだった?
 こうしてあなたの部屋に私がいるということだけでは足りなくて?

 問い掛けるひよのの瞳に自分の顔が映る。不安も不信も何も浮かべない、ただ純粋な疑問を投げ掛けるひよのに、カノンは小さく笑った。意味もなく、不安がる少女を宥めるように穏やかに。
「うん、でも僕はそれで良いと思ってるんだ」
「?」
「だって交わした言葉が本当に少ないから。僕はキミの言葉を全部憶えていられるんだ」
 全てをすぐに思い出せる。思い出さなくてもふとしたときに湧き上がってくる。そんなものは全てキミのものであって欲しい。僕はそれくらい。それくらいキミを。
 言葉が少ないのでなく、会話が少ないのでなく、あまりにも足りない。
「ちゃんと私の言葉を憶えていたいから、憶えやすいように、憶えていやすいように、少ない方が良い…そう思ってくれてるんですか?」
「うん」
 子どものように素直に頷くカノンに、ひよのは困ったように笑った。
「それは嬉しいですね。…でも、」
「でも?」
「やっぱり私は、カノンさんと沢山お話がしたいです」
「そっか。…困ったなぁ」
「嬉しく思ってはくれないんですか?」
「嬉しいよ。でもすぐに忘れてしまう」
 すぐに通り過ぎてしまう。
 交わす言葉が多ければ多いだけ、共に居る時間が長ければ長いだけ。
 時間や想いや言葉、その全てが大きな渦になりそしてそれはいつしか川になる。その流れは戻ることなくただひたすらに流れていってしまう。見えないところに行ってしまうのもすぐの話だ。
「だからほら、」
 今日もまた
 想いが、言葉が 重なって溢れてしまう前に。
 それを忘れてしまう前に。

「お帰りよ、ひよのさん」

「……わかりました」
 優しく温もりのある声でそんなこと言われたら帰るしかないじゃないですか、と彼女が以前言った。それを憶えている。だからこそ言うのだ。この言葉で彼女がここを離れることを知ったから。
「私は、忘れる暇もないくらい、思い出す必要もないくらい、いつでも言葉を交わすこともとても幸せなことだと思ってますよ」
「…うん」
「……だから、それじゃあまた」


 重ねることに怯えるカノンの『お帰り』でひよのは彼の家を後にする。その言葉でカノンは始まったばかりの、二人の、一日を閉じる。
 そうしてカノンの知らない家に帰り、ひよのはまた深夜とも言える早朝になって彼女は知っているカノンの家にやって来る。
 そして言葉を、想いを重ねることに挑むように、それを交わすことに幸せだと言った言葉通り、二人の、一日を開く。一つの言葉で。
『おかえりなさい』

 その言葉だけは、その言葉の持つ意味だけは、カノンも忘れる暇もないくらい、思い出す必要もないくらい。











 終







ストイックでプラトニックな感じ。そして変な感じに仕立て上げたかったんです(言い切った)